王国の滅亡 ― サマリアとエルサレム、二つの陥落
南北に分かれたイスラエルの王国は、やがて古代オリエントの巨大帝国にのみこまれていく。北の王国は前722年にアッシリアに、南の王国は前586年に新バビロニアに滅ぼされた。二つの陥落のあいだに何が起き、人々は破局をどう受けとめたのか。メソポタミアの帝国史を背景に読む連載第13話。
2026年6月20日
前回まで、私たちは王国が南北に裂け、それぞれの道を歩み始めた時代をたどってきた。今回はその行きつく先、二つの王国がそろって地上から姿を消していく破局の物語である。北のイスラエル、南のユダ。どちらも小さな王国だった。その小ささを際立たせるように、東のメソポタミアでは、人類史上有数の征服国家が次々と立ち上がっていく。アッシリア、そして新バビロニア。この巨大な帝国の波が、二つの王国を一世紀あまりの間にのみこんでいくのだ。旧約聖書はこの滅亡を、ただの軍事的敗北としてではなく、民が問い直しを迫られた決定的な転機として記している。
- 前9〜前8世紀
アッシリアがメソポタミアから西方へ勢力を広げ、周辺の小王国に貢納を強いていく。
- 前722年頃
北イスラエルの都サマリアが陥落し、王国が滅びる。アッシリアのサルゴン2世の治世に結びつけられることが多い。
- 前701年頃
アッシリア王センナケリブが南ユダに侵攻。エルサレムは包囲されたが、このときは陥落を免れたと伝えられる。
- 前612年
アッシリアの都ニネベが陥落し、帝国が崩壊。代わって新バビロニアが台頭する。
- 前586年頃
新バビロニアのネブカドネザル2世がエルサレムを陥落させ、ユダ王国が滅亡。バビロン捕囚が始まる。
北の王国が消えた日
二つの王国のうち、先に倒れたのは北のイスラエルだった。北の王国は南よりも豊かで人口も多かったとされるが、それは同時に、東から伸びてくる大国の触手に近いということでもあった。当時のオリエントを揺るがしていたのが、鉄器と組織された軍隊を背景に膨張を続けたアッシリアである。アッシリアは征服した地の人々を遠隔地へ強制移住させる政策で知られ、その苛烈さは古代世界に深い印象を残した。
北イスラエルは、アッシリアへの貢納と反抗のあいだで揺れ続けたすえ、ついに都サマリアを包囲される。数年にわたる攻防の末、サマリアはおよそ前722年に陥落した。この出来事はアッシリアのサルゴン2世の治世と結びつけて語られることが多く、王自身の碑文にも、多数の住民を捕らえて移住させたとする記述が残されているとされる。こうして北の王国は地図から消え、その民の多くは各地へ散らされていった。後世、行方の知れなくなった彼らは「失われた十支族」として、さまざまな伝説の種ともなっていく。
残された南の王国と、迫る影
北が滅びたのち、南のユダ王国はなおしばらく命脈を保つ。アッシリアは南へも矛先を向け、その王センナケリブはエルサレムを包囲すが、このときは都の陥落には至らなかったと伝えられている。旧約聖書はこの危機からの脱出を、神の守りのあらわれとして劇的に描いている。一方、アッシリア側の記録は包囲の事実を誇らしげに記しつつ、都を落としたとは明言していないとされ、両者の記述を突き合わせると、エルサレムが包囲を生きのびたという点ではおおむね一致すると見られている。
しかし、巨大帝国もまた永遠ではなかった。前612年、アッシリアの都ニネベが諸勢力の連合によって陥落し、あれほど恐れられた帝国はあっけなく瓦解する。古代オリエントの覇権は、新たに台頭した新バビロニアへと移っていった。南のユダにとって、これは脅威の主が入れ替わったにすがない。アッシリアの影が去ったあとには、より強大な新バビロニアの影が、エルサレムの上にのしかかっていくことになる。小国は、ただ大国の交代を見守りながら、次の嵐に備えるほかなかったのだ。
エルサレム陥落 ― 神殿が崩れる
新バビロニアの王ネブカドネザル2世のもとで、南ユダの運命は最終局面を迎える。ユダの王たちはバビロニアへの服従と反抗のあいだで判断を誤り、反乱の代償は重いものとなった。バビロニア軍はエルサレムを包囲し、ついにおよそ前586年、都は陥落する。城壁は破られ、王宮は焼かれ、そして何より、エルサレムの中心であったソロモン以来の神殿が破壊された。多くの人々が殺され、あるいは捕らえられて、はるばるバビロンへと連行されていく。これが、旧約聖書全体を貫く一つの結節点、バビロン捕囚の始まりである。
神殿の崩壊は、当時の人々にとって計りしれない衝撃だった。神殿は単なる建物ではなく、神が民とともにいることのしるしと考えられていたからである。その中心が灰になったとき、人々は信仰の根本そのものを問い直さざるをえなくなる。なぜ守られると信じた都が落ちたのか。神は民を見捨てたのか、それとも――。旧約聖書のなかには、この破局を民自身のあやまちへの報いとして受けとめ、なお神への信頼を手放すまいとする声が、繰り返し記されている。敗北を一方的な悲嘆で終わらせず、自らを省みる物語へと編み直していったところに、この書物の独特の強さがあると言えるだろう。
日本でこの時代の重みが意識されるのは、たとえば旧約聖書の和訳を通してだった。明治期に本格化した聖書翻訳の営みのなかで、王国の興亡や預言者たちの言葉は日本語に移され、近代の文学者や知識人にも読まれていく。遠い古代オリエントの一民族の滅亡の記憶が、海を越えて日本語の語彙のなかにも息づいていったのは、興味深い事実である。
こうして南北二つの王国は、ともに古代オリエントの帝国の波にのみこまれて姿を消した。けれども物語はここで終わらない。むしろ本当の転機は、すべてを失ったあとに訪れる。次回は、故郷を追われ、異郷の川のほとりに座って泣いた人々が、その嘆きのただなかで何を見いだしたのかをたどる。失われた神殿の代わりに、人々は持ち運べる信仰のかたちを編み上げていく――バビロン捕囚の物語へと、歩みを進めよう。
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