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博徒と的屋 ― ヤクザの源流

近世の賭場に集った博徒、縁日の露店に立った的屋(テキ屋)。近代国家の周縁で生まれ、任侠という自己像をまといながら、賭博と興行の利権を糧にした集団とは何だったのか。後のヤクザの源流を、制度とカネの視点から冷静にたどる第1話。

2026年6月13日

ヤクザ、あるいは暴力団と呼ばれる集団は、ある日とつぜん現れたわけではない。その輪郭をさかのぼっていくと、近世——江戸時代の社会の周縁で生計を立てた、いくつかの職業集団に行き着く。賭場を仕切った博徒(ばくと)、縁日の露店をなりわいとした的屋(テキ屋)。彼らは堅気の社会の外側に置かれながら、しかし社会と無縁ではいられない場所に立っていた。この連載は、その集団が戦後の日本社会・経済とどう絡み合い、なぜ巨大化し、いまなぜ消えつつあるのかを、制度とカネと組織の構造としてたどっていく。最初の一歩は、すべての出発点である「源流」からである。

  1. 18世紀初

    露天商の一種である香具師(やし)が、すでに各地に存在したとされる。神農を守護神とする商いの集団で、後の的屋につながる流れの一つとされる。

  2. 江戸中期

    賭博を生業とする博徒が、街道の宿場や河岸、港といった人と物の集まる場所に賭場を開き、親分・子分の縦の秩序を持つ集団として組織化していったとされる。

  3. 幕末

    清水次郎長や国定忠治といった博徒が、講談や芝居を通じて庶民のあいだで侠客として語られ、任侠という自己像が広まる素地になったとされる。

  4. 明治維新後

    賭博が法で厳しく取り締まられるようになり、博徒も的屋も、近代国家のもとで非合法・周縁の存在へと位置づけが変わっていく。

  5. 戦前期

    警察の資料などで、後の暴力団の系譜は博徒・的屋・愚連隊の三つに大別して語られるようになる。

賭場に立った博徒 ― 賭博という経済

博徒とは、文字どおり賭博を生業とした人々の集団である。賭博そのものは古くから日本に存在し、平安の頃にもその姿が見えるとされるが、それが親分・子分という縦の秩序を持つ集団として組織化していったのは、おおむね近世のことだったと言われる。江戸時代、博徒の親分は街道の宿場や河岸、港といった、人と物とカネが集まる交通の要所に拠点を構えた。そこは旅人や荷を運ぶ人足が行き交う場所であり、賭場を開くには好都合だったのだ。

ここで見落としてはならないのは、博徒の活動が一種の「経済」だったという点である。親分は自分の縄張りのなかで賭場を仕切り、そこで動くカネの一部を寺銭(てらせん)と呼ばれる形で取り分として得ていたとされる。賭博は当時すでに公には禁じられた行為でしたから、彼らの収入は非合法の領域から生まれていた。法の外にある経済を、暴力を背景にした秩序で回す——この基本的な構造は、後のヤクザにまで受け継がれていく性格だと言える。

縄張りという考え方も、この時代に育った。親分が支配する地域を島(しま)などと呼び、その島のなかで賭博を取り仕切る権利を独占する。縄張りは集団の収入源そのものであり、それを侵されることは経済的な打撃を意味した。後の時代に繰り返される抗争の遠い原型が、すでにこの賭場の論理のなかに芽生えていたのだ。

縁日に立った的屋 ― 露店という経済

もう一つの大きな源流が、的屋である。テキ屋とも呼ばれるこの集団は、縁日や祭礼の場に露店を構え、品物を売ることをなりわいとした。その起源の一つは、薬や小間物などを売り歩いた香具師(やし)にあるとされる。香具師は18世紀の初めにはすでに各地に存在した職業とされ、中国の伝説上の帝王で農業や医薬の神とされる神農を守護神としていた。薬売りを中心に、居合抜きや曲芸といった見世物を組み合わせて客を集め、品を売る——芸はしばしば、商いのための手段でもあったと言われる。

的屋もまた、博徒と同じように親分・子分の縦の秩序を持つ集団だった。家名を掲げ、入門・破門といった手続きを親分の裁定で定める。その組織のあり方は博徒とよく似ている。一方で、なりわいの中身は違った。博徒が賭博という非合法の経済に立っていたのに対し、的屋の露店商いそれ自体は、本来は合法的な商売である。

では、的屋のどこが裏社会の源流とされるのか。鍵は、祭礼の場で露店を出す「場所」をめぐる秩序にある。どの店がどこに出店できるかを親分が差配し、出店する者から場所代にあたるものを受け取る。この場所をめぐる権利の管理が、縄張りの考え方と結びついていった。合法な商いと、その商いの場を仕切る権利の管理——この二つの境目に立っていたところに、的屋という存在の独特さがある。後の章で見る「みかじめ料」のような、合法の経済に寄り添いながら利益を得る仕組みの、遠い源の一つがここにあった。

任侠という自己像と、その実態

近世から近代にかけて、博徒のなかには庶民の人気を集めた人物も現れた。幕末の清水次郎長や国定忠治といった名は、講談や芝居、後の映画を通じて広く知られ、弱きを助け強きをくじく侠客として語られていく。任侠——義理と人情を重んじ、堅気には迷惑をかけないという美徳の物語は、こうした語りのなかで形づくられ、博徒や的屋が自らを語るときの自己像にもなっていった。

ただし、ここでは注意が要る。任侠の物語は、あくまで彼らが自らをどう見せ、また人々がどう語り伝えたかという「像」であって、活動の実態そのものではない。彼らの収入は賭博や、場をめぐる権利から得られており、その秩序は最終的に暴力を背景に保たれていた。物語のなかの義理人情と、賭場や縄張りをめぐって実際に起きた争いや、堅気の人々が負った迷惑とは、分けて見る必要がある。任侠という言葉の心地よさに引き寄せられると、構造が見えなくなってしまうからである。

近代国家の周縁で

明治維新は、博徒と的屋の立ち位置を大きく変えた。近代国家が法と警察の制度を整えていくなかで、賭博は厳しく取り締まられ、博徒の活動は明確に非合法の側へ押しやられる。的屋もまた、露店をめぐる規制や取り締まりの対象となり、近代社会の正規の秩序からは外側に置かれていった。

それでも、彼らはすぐには消えなかった。なぜなら、近代化の過程で生まれた人と物の流れ——都市への人口集中、工事や港湾の労働、祭礼や興行の場——には、正規の制度だけでは埋めきれない隙間があったからである。労働者の手配、賭博の場、露店の差配といった領域に、博徒や的屋は周縁の担い手として残り続けた。後に警察の資料などでは、現在につながる暴力団の系譜が、博徒・的屋、そして青少年の不良集団である愚連隊という三つの流れに大別して語られるようになる。源流をたどれば、その二つがすでにこの近世・近代の周縁に存在していたわけである。

近代国家が秩序を整えるほど、その秩序からこぼれ落ちる人々や、制度の隙間にある非合法・半合法の領域が浮かび上がる。博徒と的屋は、まさにその隙間に立つ集団だった。彼らがなぜ生まれ、なぜ生き延びたのか——その答えは、彼ら個人の善悪よりも、社会の構造の側にある。そしてこの「隙間に生まれる集団」という性格は、次の時代に、より劇的な形で現れることになる。日本を焦土に変えた敗戦が、社会の秩序を根こそぎ崩したとき、この古い集団は思いがけない居場所を手にしてしまうのだ。

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