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すれ違う価値観 ― 天安門・人権・台湾・香港

一九八九年の天安門事件は、米中の蜜月の底に横たわる価値観の溝を白日の下にさらした。人権と体制、台湾、香港、新疆。経済では結びついた二つの国が、決して交わらない一線をめぐって静かに対立を深めていく。

2026年6月12日

一九八九年六月五日の朝、北京の長安街で、一人の男が一列の戦車の前に立った。買い物袋らしきものを両手に提げたまま、男は鋼鉄の隊列の進路をふさいだ。戦車が左にかわそうとすると、男も左へ動いて再び立ちはだかる。やがて誰かに連れ去られ、その名も、その後の運命も、今に至るまで分かっていない。

世界中のカメラが捉えたこの無名の男の姿は、二十世紀を象徴する一枚として記憶された。前夜、北京の中心で何が起きたのか。それは、経済では一つに絡み合い始めた米中が、決して交わらない領域を抱えていることを、世界に突きつける出来事だった。

一九八九年、北京の春

その年の春、北京の天安門広場には、民主化を求める学生や市民が日を追って集まっていた。きっかけは改革派の指導者の死を悼む動きだったが、やがて自由や政治改革を求める大きなうねりへと膨らんでいった。広場はテントで埋まり、ハンガーストライキが続き、世界の報道陣が見守るなか、緊張は限界まで高まっていった。

中国指導部の内部では、対応をめぐって深刻な対立が走った。総書記の趙紫陽は、学生との対話によって事態を収拾できると考え、自ら広場に赴いて学生に語りかけた。だが強硬論が勝った。最高実力者の鄧小平の決定のもと、五月に北京市へ戒厳令が布かれる。趙紫陽は失脚し、表舞台から姿を消した。

そして六月四日未明、人民解放軍が兵士と戦車を市内に投入し、広場とその周辺の制圧に乗り出した。多数の犠牲者が出たとされるが、その正確な数は今も判然としない。「北京の春」と呼ばれた季節は、こうして暴力のうちに閉じられた。

この出来事は、世界中のテレビが連日伝えていた。ちょうどその頃、アメリカでは中国に対する見方が大きく揺らぎつつあった。ニクソン訪中以来、対ソ戦略の相棒として、そして改革開放に踏み出した有望な市場として、中国はおおむね前向きに語られてきた。だが広場での流血は、その明るい物語に深い亀裂を入れた。豊かになりつつある中国は、はたして自分たちが期待したような国へと変わっていくのか。その問いが、初めて重い影を帯びて突きつけられたのである。

  1. 1989

    天安門事件。米国は武器禁輸などの対中制裁に踏み切る

  2. 1990

    物理学者の方励之が米大使館での保護を経て出国。米中の水面下の交渉が続く

  3. 1996

    第三次台湾海峡危機。米国が空母を派遣し緊張が高まる

  4. 2020

    香港国家安全維持法が施行。米国は一国二制度の危機として制裁を開始したとされる

制裁と、それでも続いた関係

事件は、米中関係に正面から冷や水を浴びせた。アメリカは武器の禁輸をはじめとする制裁を打ち出し、議会には中国との経済関係を断つべきだという強硬な声が渦巻いた。人権を掲げる国として、これを見過ごせば建国の理念に背くことになる。世論は激しく沸き立った。

その渦中で、象徴的な一幕があった。民主化運動の精神的支柱とされた物理学者の方励之が、夫人とともにアメリカ大使館に駆け込み、保護を求めたのである。中国当局は身柄の引き渡しを要求し、米中は神経をすり減らす交渉に入った。方励之が出国を認められたのは、事件から一年あまりが過ぎてからのことだった。

それでも、ブッシュ政権は関係を完全に断ち切る道は選ばなかった。大統領は密使を北京へ送り、鄧小平への親書を通じて、議会の圧力にもかかわらず関係を破局させない意思を伝えたと伝えられる。経済の結びつきは、すでにそれほどまでに深かった。怒りと、利害と、戦略的な計算。それらが綱引きをした末に、米中はかろうじて関係の糸をつなぎとめた。だがこのとき刻まれた溝は、その後の数十年にわたって消えることはなかった。

象徴的だったのが、中国に与える貿易上の優遇措置をめぐる議論である。アメリカでは事件のあと、この優遇を人権状況の改善と結びつけて、毎年のように見直すべきだという声が強まった。経済を梃子にして中国の振る舞いを変えさせようという発想である。だが結局、貿易の実利を重んじる立場が押し返し、優遇は維持されていった。理念を掲げる議会と、関係の継続を望む政権。アメリカ自身の内側にも、中国とどう向き合うかをめぐる深い分裂が走っていた。この揺れは、その後の対中政策に幾度も繰り返し現れることになる。

台湾、香港、そして交わらない一線

すれ違いは、人権という抽象的な理念だけにとどまらなかった。それは具体的な土地と人々をめぐる、より生々しい対立として何度も噴き出した。

一九九六年、台湾で初の直接選挙による総統選が近づくなか、中国は台湾近海でミサイル発射を含む大規模な軍事演習を強行した。台湾の有権者への威嚇である。これに対しアメリカは空母機動部隊を派遣し、海峡の緊張は一気に高まった。第三次台湾海峡危機と呼ばれるこの一件は、台湾をめぐって米中が軍事的に向き合う構図を、冷戦後の世界にあらためて刻みつけた。

二十一世紀に入ると、舞台に香港が加わる。一九九七年にイギリスから中国へ返還された香港は、一国二制度のもとで高度な自治を約束されていたはずだった。返還から半世紀は資本主義と自由な制度を維持するという約束である。ところが二〇一九年の大規模な抗議運動を経て、翌二〇二〇年、香港国家安全維持法が施行された。国際社会はこれに強く反発し、アメリカは一国二制度が損なわれたとして制裁に踏み切ったとされる。かつて東西を結ぶ自由の窓口とされた都市の変容は、米中のすれ違いを象徴する出来事として受け止められた。

さらに新疆ウイグル自治区をめぐっても、人権侵害があったとするアメリカと、内政干渉だと反発する中国とのあいだで、制裁と反制裁の応酬が続いた。アメリカは関連する製品の輸入を制限する法律まで設けた。これらの問題については双方の主張が鋭く対立し、事実関係や評価をめぐる見方は今も分かれている。確かなのは、台湾も、香港も、新疆も、いずれも中国が自国の主権と統一に関わる核心的利益と位置づける一方で、アメリカが人権や自由という普遍的価値の観点から関心を寄せ続けたという、視点そのもののすれ違いである。

「関与」という賭けに込められた期待、すなわち豊かさが中国を変えるという見通しは、この一線の前で立ち止まった。中国は豊かになった。だが、アメリカが望んだ方向へは変わらなかった。むしろ自らの体制への自信を深め、世界に向けて独自の道を主張するようになっていく。

蜜月の底に横たわっていた価値観の溝は、もはや隠しようもなく姿を現していた。あとは、その溝の両側に立つ指導者が誰になるかだった。やがて二人の人物が歴史の舞台に登場し、すれ違いを後戻りのできない対立へと変えていくことになる。

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