革命の世紀 ― 内戦と名誉革命
王と議会の対立は内戦へ発展し、ついに王の処刑と共和政という前例なき事態に至る。だが共和政は長続きせず、王政は復活した。1688年の名誉革命と翌年の権利章典は、流血を避けつつ議会の優位を定め、立憲君主制の礎を据える。一世紀におよぶ革命の連鎖を、光と影の両面から中立にたどる。
2026年6月13日
前回まで、私たちはテューダー朝の宗教改革と海への雄飛を見てきた。けれど、外へ膨らんでいく力は、国の内側に新たな火種を残していた。王の権威はどこまで及ぶのか。議会は、課税や政治にどこまで物を言えるのか。テューダー朝が幕を閉じ、新たにスチュアート朝の王たちが迎えられると、この問いはついに正面からぶつかり合う。十七世紀の島国は、王と議会の対立が内戦へと燃え上がり、王の処刑、共和政、そして王政の復活と、めまぐるしい振幅を経験した。その果てにたどり着いたのが、流血を避けつつ国のかたちを定めた名誉革命である。この回では、一世紀におよぶ革命の連鎖を、光と影の両面から中立にたどる。
- 1642
王と議会の対立が内戦へ発展(ピューリタン革命の始まりとされる)。議会派と王党派が各地で戦った。
- 1649
国王チャールズ1世が処刑され、共和政(イングランド共和国)が宣言された。王のいない統治という前例なき試みとなった。
- 1688
名誉革命。ジェームズ2世が亡命し、議会がウィリアム3世とメアリー2世を共同君主に迎えた。翌年の権利章典で立憲君主制の礎が据えられた。
王と議会の衝突 ― 内戦から王の処刑へ
スチュアート朝の王たちは、王の権力は神に由来し、議会に縛られないという考え(王権神授説)に傾いたとされる。とりわけチャールズ1世(1600〜1649)は、議会の同意なき課税や、宗教政策をめぐって、議会と鋭く対立した。議会の側には、課税や統治には自分たちの同意が要るという、マグナ・カルタ以来の感覚が根を張っていた。両者の溝は埋まらず、ついに1642年、対立は武力衝突――内戦へと発展する。これがピューリタン革命と呼ばれる動乱の始まりとされる。
議会派と王党派に分かれた戦いのなかで、頭角を現したのがオリヴァー・クロムウェル(1599〜1658)である。彼は規律ある軍を率いて王党派を打ち破り、議会派を勝利へ導いたとされる。そして1649年、捕らえられたチャールズ1世は裁判にかけられ、処刑された。王を裁き、その首をはねるという行為は、当時のヨーロッパにおいて前例のない衝撃であり、王の権威を絶対視する人々を震え上がらせた。同じ年、イングランドは王のいない共和政(イングランド共和国、コモンウェルス)の樹立を宣言する。
共和政の挫折と王政の復活
王を失った共和政は、しかし安定をもたらしなかった。クロムウェルは護国卿(ロード・プロテクター)という地位に就き、強い権力を握る。彼の統治は、規律と秩序を重んじる一方で、しだいに軍事的な独裁の色を帯びていったと評される。議会との関係はこじれ、厳格な宗教的規律が人々の暮らしを締めつけたとも伝えられる。
なかでも、クロムウェルがアイルランドで行った軍事行動は、苛烈なものとして記憶されている。多くの命が失われ、土地が没収された出来事は、後々まで深い禍根を残したと論じられている。「王を倒した解放者」という像と、「容赦のない征服者」という像――クロムウェルの評価が今も鋭く分かれるのは、こうした光と影の両方を彼が背負っているからである。
クロムウェルの死後、共和政を支える求心力は失われ、混乱が広がる。人々の多くは、結局のところ秩序を取り戻すには王が要る、と考えるようになったとされる。こうして1660年、処刑された王の子が迎えられ、王政が復活しました(王政復古)。一見すると、革命はふりだしに戻ったかのようだった。けれど、王の権力は、もはやかつてのように無条件のものではなくなっていた。王は議会と折り合いをつけねばならない――内戦と共和政の記憶は、そのことを誰の心にも刻み込んでいたのだ。
流血なき転換 ― 名誉革命と権利章典
王政が復活しても、王と議会の緊張は消えなかった。とりわけ、後に即位したジェームズ2世は、カトリックを重んじる姿勢と、王の大権を強く主張する統治によって、議会や国民の不安を高めたとされる。プロテスタントが多数を占める国で、カトリックの王が権力を集中させていく――その先行きに、人々は危機感を募らせていった。
そこで議会の主要な勢力は、思い切った手を打つ。1688年、彼らはジェームズ2世の娘で、プロテスタントのメアリーと、その夫でオランダの統治者ウィリアムに、援助を求めた。ウィリアムが軍を率いてイングランドへ上陸すると、支持を失ったジェームズ2世は抵抗できずに国外へ亡命する。大きな戦いを経ずに王が替わったことから、この出来事はイングランド国内では名誉革命(無血革命)と呼ばれるようになった。ただし、これを「無血」と呼べるのはイングランド国内に限った話で、スコットランドやアイルランドでは激しい戦いと犠牲を伴った、という点は公正に見ておく必要がある。
議会はウィリアム3世とメアリー2世を共同君主として迎え、二人は議会の示した条件を受け入れて即位した。そして1689年、その内容をもとに権利章典が定められる。そこには、議会の同意なき課税や法の停止を認めないこと、議会内の言論の自由、定期的な議会の開催などが盛り込まれたとされる。王は法と議会の上には立てない――この原則が文章のかたちで据えられたことで、王が統治しつつもその権力が法と議会に枠づけられる立憲君主制の礎が築かれた、と評される。
十七世紀の島国は、王と議会の衝突から内戦へ、王の処刑と共和政へ、そして王政復古を経て名誉革命へと、激しい振幅を描いた。その果てに、人々は流血を繰り返すのではなく、王と議会が法のもとで折り合う、という一つの答えにたどり着く。マグナ・カルタに芽吹いた「法の支配」と「議会」の観念は、ここでようやく、国を動かす確かな仕組みへと育った。内なる対立を一区切りつけ、統治の安定を手にした島国は、やがてその力を外へと向けていく。次の世紀、ブリテンは世界の海と大陸へ膨張し、巨大な帝国を築き上げていくのだ。
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