マグナ・カルタ ― 自由と議会の芽
1215年、失政を重ねたジョン王に貴族たちが突きつけた一枚の文書。それはやがて、王といえども法に従うという観念と、合議によって国を動かす議会の芽を、この島に植えつけることになる。マグナ・カルタの誕生をたどる第2話。
2026年6月13日
前回、海を越えてきた征服者によって、ブリテン島にはひとつの強い王権が据えられた。王は土地を分け、城を築き、剣の力で島を束ねる。けれど、その絶大な力には、ひとつの危うさがひそんでいた。王が賢明であれば国はまとまるが、王が私利に走り、失政を重ねれば、その負担はそのまま家臣や民にのしかかってくる。歯止めとなる仕組みがなければ、王の気まぐれを誰も止められないのだ。13世紀のはじめ、まさにそうした王のもとで、島の人々は歴史に残るひとつの行動に出る。王に文書を突きつけ、その力に枠をはめようとしたのだ。のちにマグナ・カルタ(大憲章)と呼ばれるその一枚は、王といえども従うべきものがあるという考えを、この島に芽生えさせていくことになった。
- 1199
ジョンがイングランド王に即位する。
- 1204
大陸のノルマンディーをフランス王に奪われ、王の威信が大きく傷つく。
- 1215
6月、ラニーミードでジョン王が貴族たちの要求を認め、マグナ・カルタが成立する。
- 1215
同年、教皇インノケンティウス3世がマグナ・カルタの無効を宣言するが、王の死後に内容は復活していく。
- 1265
シモン・ド・モンフォールが、都市の代表をも加えた議会を招集したと伝えられる。
- 1295
エドワード1世が広く各層から代表を集め、のちに模範議会と呼ばれる集まりを開く。
失政の王、ジョン
物語の中心にいるのは、ジョンという名のイングランド王である。彼は1199年に王位につきましたが、その治世は苦難の連続だった。まず大陸では、先祖から受け継いだノルマンディーをはじめとする領地の多くをフランス王に奪われ、王の威信は大きく傷つく。失った土地を取り戻そうとすれば、戦費が要る。その費用をまかなうため、ジョンは家臣である貴族たちに重い税や負担金を次々と課していった。
しかも王は、教会との関係でもつまずく。カンタベリー大司教の人選をめぐってローマ教皇と争い、一時はイングランド全土が破門に近い状態へと追い込まれたと伝えられる。やがて王は教皇と和解すが、それは王の立場が弱まったことを内外に示す結果ともなった。大陸での敗北、教会との対立、そして重なる課税。ジョンの治世は、王の権威が揺らいでいく時代だったのだ。後世、彼が欠地王とも呼ばれるようになったのは、こうして領土を失っていった姿に由来するとされる。
決定的だったのは、フランスへの遠征がまたしても失敗に終わったことだった。多くの負担を強いられながら、見返りとなる勝利は得られない。貴族たちの不満はついに限界を超える。彼らはもはや、王に従順な家臣であることをやめ、王に対して要求を突きつける集団へと変わっていった。王と貴族の対立は、いよいよ正面からぶつかる局面へと進んでいったのだ。
1215年、ラニーミードの誓い
1215年6月、テムズ川のほとりラニーミードと呼ばれる草地で、王ジョンは貴族たちの要求を認めざるをえなくなる。武力を背にした圧力のもとで、王は彼らの突きつけた条項に同意し、ここにマグナ・カルタが成立した。それは前文と六十を超える条項からなる長大な文書で、もともとは貴族の具体的な権利を守るための、きわめて実務的な取り決めの集まりだった。
その多くは、当時の封建的な慣習にかかわる細かな約束である。けれども、いくつかの条項には、時代を超えて読み継がれる重みがあった。とりわけ知られるのが、自由な者は、同じ身分の者による正当な裁判や国の法によらなければ、捕らえられたり財産を奪われたりしてはならない、という趣旨の条項である。これは、王であっても定められた手続きを飛び越えて人を罰してはならない、という考えを示すものだった。さらに文書には、一定の課税には貴族らの合議による同意を要するという発想や、約束が破られたときに貴族が王を正す仕組みまで盛り込まれていたとされる。王の権力に、はっきりと枠がはめられたのだ。
もっとも、この誓いはすぐに揺らぐ。ジョンは早くもこの取り決めを不本意としており、同じ年のうちにローマ教皇インノケンティウス3世がマグナ・カルタの無効を宣言した。国内はふたたび争いへと傾き、文書は一度はその効力を失う。それでもジョンの死後、幼い後継者を支える人々のもとで、マグナ・カルタは形を変えながら確認され、復活していった。一度きりの取り決めに終わらず、王が代わるたびに繰り返し確かめられていったことが、この文書を特別なものにしたとされる。やがてそこに記された原則は、イングランドの政治の底に流れる、消えにくい伝統となっていった。
法の支配と、議会の芽
マグナ・カルタが後の世に残したものは、個々の条項そのものよりも、その背後にある考え方だった。それは、王といえども法の上に立つことはできない、という観念である。のちに法の支配と呼ばれるこの発想は、最初から完成した形であったわけではない。けれど、王の意思のほかに従うべき定めがあると文書ではっきり示したことは、絶対の王権という考えに、ひとつのくさびを打ち込むものだった。後の時代、人々が王の専横に抗うとき、彼らはしばしばこの古い文書に立ち返り、自分たちの正しさのよりどころとしていく。
もうひとつ、この時代から育っていったのが、合議によって国を動かす仕組みだった。王が重い課税を行うには有力者の同意が要る、という発想は、王と臣下が話し合う集まりを必要とする。13世紀の後半には、こうした集まりに、貴族や聖職者だけでなく、州や都市の代表までもが加えられるようになっていった。1265年にシモン・ド・モンフォールが招集したとされる議会や、1295年にエドワード1世が広く各層の代表を集めて開いた、のちに模範議会と呼ばれる集まりは、その大きな節目とされる。やがてこの集まりは、有力者からなる上院と、州や都市の代表からなる下院へと分かれ、イングランド議会の原型がかたちづくられていった。
ここで気をつけたいのは、これを今日のような民主主義の誕生と同じものと見ないことである。当時の議会に加わったのは限られた身分の人々であり、広く民の声を代表するものではなかった。マグナ・カルタが守ろうとしたのも、まずは特権をもつ者たちの権利だった。それでも、王の力を法と合議によって制約するという発想が、この島に芽として植えられたことの意味は小さくない。その芽は、何世紀もかけてゆっくりと育ち、やがて議会政治という大きな樹へと姿を変えていくことになる。
征服によって据えられた強い王権は、こうして法と合議という枠のなかへ、少しずつ導かれていった。マグナ・カルタは、その第一歩を刻んだ記念碑である。とはいえ、島の歩みはなお平坦ではない。王と貴族のせめぎ合いは続き、やがてそこに、海の向こうから押し寄せる宗教の大変動と、未知の大洋へ漕ぎ出していく時代が重なってくる。法の芽を抱いた島国は、次の章で、まったく新しい嵐のなかへと進んでいくことになるのだ。
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