ブラックマンデーと金融自由化
1987年10月19日、ニューヨークの株価が一日で約22パーセント崩れ落ちた。プログラム取引が下落を加速させ、衝撃は電子の回線を伝って世界を一周する。金融自由化でひとつにつながった市場が、いかに脆さも分かち合うことになったのか。ブラックマンデーの一日を史実ベースで描く。
2026年6月13日
前話で私たちは、焼け跡から立ち上がった戦後日本の市場が、投資信託とともに大衆へ広がっていく姿を見た。市場が「みんなのもの」になる時代の話だった。だがその頃、世界の市場は別の方向へも動きはじめていた。国境を越えて、つながり合おうとしていたのである。
1980年代、先進各国はこぞって金融の規制をゆるめていった。手数料を自由にし、外国の参加者に門戸を開き、取引を紙と人の手から電子の画面へと移していく。それまで国ごとに区切られていた市場が、回線でつながり、ひとつの巨大な機構へと織り上げられていく時代だった。
自由化は、より多くの資金がより速く、より遠くまで動けることを意味した。それは繁栄の予感に満ちていた。だが同時に、ひとつの市場の動揺が、瞬く間に地球全体へ伝わる回路をも生み出していた。1987年10月19日、その回路は最悪のかたちで作動する。
規制をゆるめ、つながりはじめた市場
まず、この時代の地殻変動を見ておきたい。
象徴的な出来事が、1986年10月にイギリスで実施された証券市場の大改革――いわゆる「ビッグバン」である。売買手数料が自由化され、銀行による証券分野への参入が認められ、取引は画面上で行うスクリーン取引へと転換されたとされる。ロンドンはこの改革によって、国際的な金融センターとしての地位を一気に高めた。
同じ波は各国に広がった。各国の市場が、より開かれ、より速く、より低コストになろうと競い合う。この制度間の競争こそが、1980年代の金融グローバル化を押し進めた力だったと指摘されている。日本でも金利の自由化が段階的に進み、市場金利に連動する商品が登場しはじめていた。
つながった市場は、平時には効率と繁栄をもたらす。だが、いざ衝撃が走ったとき、そのつながりは恐怖を増幅し、世界中へ運ぶ導管へと変わりうる。1987年秋、市場にはすでにいくつかの不安――アメリカの貿易赤字と財政赤字、いわゆる双子の赤字や、金利上昇への懸念――がくすぶっていた。そして、ある月曜日が来た。
一日で二割が消えた月曜日
1987年10月19日、月曜日。ニューヨークのダウ平均株価は、その日一日で508ドル下落した。下落率はおよそ22.6パーセント。一日の下げ幅として、現在に至るまで史上最大級とされる記録である。
この数字の重みは、過去と比べるとよくわかる。世界恐慌の引き金となった1929年10月24日の暴落でさえ、下落率は1割強だったと伝えられる。ブラックマンデーは、それを大きく上回る崩落を、たった一日で引き起こしたのだ。
- 1986
イギリスでビッグバンと呼ばれる証券市場改革。手数料自由化と電子取引への転換が進む
- 1987年10月19日
ニューヨークでダウ平均が一日で約22.6パーセント下落。ブラックマンデー
- 1987年10月20日
衝撃が世界へ波及。翌日の東京市場は戦後最大級の下落率を記録したとされる
- 1988以降
ブレイディ委員会の報告などを受け、各国の取引所にサーキットブレーカーが導入されていく
なぜ、これほどの崩落が起きたのか。じつは、その根本の原因は今も完全には解明されていないとされる。双子の赤字への不安や金利上昇など、いくつもの理由が指摘されてきたが、いずれも決定打とは言いがたい。確かに言えるのは、市場参加者がパニックに陥り、いっせいに売りに走ったということである。
ただ、この暴落を一気に深くした要因として、しばしば名指しされるものがある。コンピュータによる自動的な売買――プログラム取引である。あらかじめ組み込まれた条件に従い、株価が一定の水準まで下がると、人の判断を待たずに機械が売り注文を出す。その売りがさらに株価を下げ、下がった株価が次の自動売りを呼ぶ。下落が下落を生む悪循環を、コンピュータが冷徹に加速させたとされる。
つながった市場の、つながった恐怖
ニューヨークの崩落は、その日のうちに、そして翌日にかけて世界へ広がった。自由化でひとつにつながった市場が、今度は恐怖を分かち合うことになる。
翌20日、東京の株価も大きく崩れた。日本の株価は戦後最大級の下落率を記録したと伝えられる。ロンドンも、香港も、各地の市場が同時に売られた。ひとつの時間帯で起きた暴落が、地球の自転に沿って次々と各市場の朝を襲っていく。電子の回線でつながった市場は、繁栄だけでなく、崩落もまた瞬時に共有してしまうことを、世界は思い知らされた。
この教訓は、市場のかたちを少しだけ変えた。暴落を調査したブレイディ委員会の報告などを受け、株価が急落した際にいったん取引を止める「サーキットブレーカー」という仕組みが提唱され、アメリカをはじめ各国の取引所へ導入されていったとされる。市場が暴走しかけたら、強制的に立ち止まらせ、人々に冷静になる時間を与える――機械の連鎖を、別のルールで断ち切ろうという試みである。
ブラックマンデーは、世界恐慌のような長い不況には直結しなかった。市場は比較的早く落ち着きを取り戻したとされる。だが、それは安心の物語ではない。むしろ、つながりすぎた市場がいかに脆く、人間とコンピュータの相互作用がいかに予測しがたい崩落を生みうるかを、はっきりと刻みつけた事件だった。市場の主役に、人だけでなく機械が加わりはじめた――その兆しが、この一日には確かにあった。
そして、自由化とグローバル化の熱気は、この崩落のあとも冷めなかった。とりわけ、太平洋の西の島国では、土地と株をめぐる熱狂が、世界の誰も見たことのない規模にまで膨らもうとしていた。次の章では、その空前のバブルと、避けがたい崩壊の物語へと足を踏み入れることになる。
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