復興と大衆の市場
焼け跡から、市場はもう一度立ち上がる。1949年に再開した東京証券取引所、投資信託の登場、高度成長の追い風。株式が一部の富裕層のものから「みんなのもの」へと広がっていく時代と、その熱狂が招いた1965年の証券不況までを、史実ベースで描く。
2026年6月13日
前話で私たちは、1929年のウォール街がいかに崩れ落ち、世界恐慌が人々の暮らしを呑み込んだかを見た。アメリカはその反省から証券取引委員会(SEC)を生み、市場に新しいルールという背骨を通した。だが破壊と再生の物語は、海の向こうの国でも繰り返されていた。
第二次世界大戦が終わったとき、日本の街は焼け野原だった。市場もまた、止まっていた。戦時下で取引所は統制下に置かれ、敗戦とともにその機能は宙に浮く。焼け跡から市場をどう立ち上げ直すのか――この問いに、戦後日本は十数年をかけて答えていくことになる。そしてその答えは、株式を一部の人々の特権から、ふつうの人々の手の届くものへと変えていく道でもあった。
焼け跡から再開した取引所
戦後、日本の証券市場の再開は簡単には進まなかった。
終戦直後、当局は早期の市場再開をめざしたが、占領下の日本を統治していたGHQ(連合国軍総司令部)は1945年9月、取引所の再開を当面認めない方針を示したとされる。投機の温床になりかねない市場を、まずは制御下に置こうという判断であったと考えられている。戦前から続いた日本証券取引所はやがて解散し、市場は宙づりのまま数年を過ごす。
転機は、1948年の証券取引法の整備だった。アメリカ流の投資家保護の考え方を取り入れたこの法律が、戦後の証券業の土台を据える。そして1949年4月、会員制の組織として東京証券取引所が設立され、GHQとの覚書を経て、同年5月16日に売買が再開された。
再開された市場は、戦後復興のエンジンの一部となっていく。企業が立ち直り、設備を新しくし、事業を広げるには、巨額の資金がいる。銀行からの借り入れだけでなく、株式を発行して広く出資を募るという仕組みが、ふたたび社会の血流として動きはじめた。市場は、ただ投機の場ではなく、国を建て直す資金を集めるための装置として、もう一度その役割を取り戻していった。
投資信託 ― 小さなお金を束ねる発明
とはいえ、株式投資は依然として、まとまった資金と知識を持つ人々のものだった。一銘柄を買うにも値が張り、どの会社が伸びるかを見極めるのは難しい。ふつうの勤め人や主婦が、いきなり個別株の世界に飛び込むのは、まだ遠い話だった。
ここで大きな役割を果たしたのが、投資信託である。多くの人から少しずつお金を集め、専門家がまとめて株式や債券に投資し、その成果を出資者で分け合う――この仕組みなら、小さな元手でも分散の効いた投資に参加できる。リスクを分け合うという、この連載の出発点にあった発想が、戦後日本では「大衆化」というかたちで花開いていく。
- 1945
GHQが取引所の再開を当面認めない方針を示し、戦後の市場は宙づりとなる
- 1949
証券取引法の整備を経て東京証券取引所が設立、5月16日に売買再開。現在の日経平均の起点とされる
- 1951
戦後の証券投資信託制度が始まり、小口の資金を束ねる仕組みが整う
- 1961
公社債投資信託が大衆向けに発売され、投信残高が1兆円を超えたと伝えられる
- 1965
証券不況。山一證券などの経営難に対し、日銀特融が発動される
昭和30年代、つまり1950年代後半から60年代にかけて、好景気を背景に株式投信が人気を集めた。集まった資金が株式を買い、それが株価を押し上げ、上がった株価がさらに投信へお金を呼び込む――そんな循環が生まれたとされる。1961年には日興証券などの発案で公社債投資信託が大衆向けに売り出され、投信全体の残高は1兆円を突破したと伝えられている。
街角の証券会社には、これまで株とは縁のなかった人々が足を運ぶようになった。給料の一部を投信に回し、夢の配当を待つ。市場は、限られた資産家の社交場から、広い社会へとその裾野を広げていった。
大衆化の高揚と、その代償
この大衆化は、高度経済成長という時代の追い風と分かちがたく結びついていた。
1955年以降、日本は年平均で10パーセントを超える勢いで経済を拡大させたとされる。新しい工場が建ち、家電が各家庭に入り、人々の暮らしは目に見えて豊かになっていった。その成長の物語に、株式市場は資金の供給源として、また人々の希望の受け皿として深く関わった。投資が一般の人々に広がっていく――それは、戦後日本が手にした明るさの一面であった。
だが、上り続ける市場はどこかで息切れする。これも、この連載が何度も描いてきた人間の物語だ。
証券不況は、市場の裾野が広がったぶんだけ、その動揺が多くの人々の暮らしに及ぶことを示した。かつて一部の投機家の損得にとどまっていた相場の波が、いまや普通の出資者の貯えを揺さぶる。市場が「みんなのもの」になるとは、その光だけでなく、影もまた「みんなのもの」になることを意味していた。
それでも、日銀特融による緊急の下支えを経て、市場は立ち直っていく。山一證券もこのときは再建を果たし、日本経済はその後も成長を続けた。戦後の証券市場は、再開・大衆化・最初の危機という三つの段階を踏みながら、社会のなかに根を下ろしていったのである。
焼け跡から始まったこの章は、市場が国を建て直し、人々の暮らしに溶け込んでいく姿を見せてくれた。だが、市場が広がるということは、国境の内側にとどまらないということでもある。次の時代、各国の市場は規制をゆるめ、電子の回線でつながり合い、ひとつの巨大な機構へと姿を変えていく。その自由化の波が、やがて一日で世界中の株価を崩落させる新しい種類の嵐を呼ぶことを、当時はまだ誰も知らなかった。
この記事は役に立ちましたか?
フィードバックありがとうございます!