ロサンゼルスの革命 ― 1984、五輪が黒字になった日
1976年モントリオールの巨額赤字で、誰も開きたがらない重荷になっていた五輪。1984年ロサンゼルス大会は、ピーター・ユベロスという旅行業出身の経営者が、税金を使わず民間の力で運営し、黒字へと転換させた。商業五輪モデルが確立した、その光と影を史実ベースで描く。
2026年6月13日
前話で私たちは、1976年モントリオール大会が市民に長い返済を背負わせた重荷となり、五輪が「開きたい者のいない祭典」へと傾いていくさまを見た。1984年大会に名乗りを上げたのは、事実上ロサンゼルスただ一都市だったとされる。栄誉どころか、財政破綻の危険を引き受ける貧乏くじ――それが当時の五輪の姿だった。
ところが、この1984年ロサンゼルス大会こそが、五輪の歴史を二つに分ける転換点になる。手作りの理想でも、国家の威信でもなく、「ビジネス」が五輪を救おうとした最初の大会である。その立役者が、旅行業界出身の一人の経営者、ピーター・ユベロスだった。
税金を一円も使わない、という縛り
ロサンゼルスがこの大会を引き受けるにあたって、特異な前提があった。
市民は、五輪のために税金を使うことを拒んだ。1978年に行われた住民投票で、ロサンゼルス市は大会の費用超過を市の財源で補填しないと定めたと伝えられる。モントリオールの惨状を目の当たりにした後だけに、市民の警戒は強かった。つまり組織委員会は、公的資金という安全網なしに、自分たちの稼ぎだけで巨大な祭典を運営しなければならなくなった。
普通に考えれば、これは致命的な縛りである。だがユベロス率いるロサンゼルスオリンピック組織委員会(LAOOC)は、この制約を逆手に取った。税金が使えないなら、民間のカネで賄えばよい。スポンサー料、放映権料、入場料――収入の柱をすべて市場から集め、支出を徹底して切り詰める。新しい競技施設をむやみに建てず、大学の寮や既存の競技場を借りて使う。五輪を「公共事業」から「採算の取れる事業」へと組み替える発想だった。
ユベロス自身は、スポーツ界の人間ではなかった。旅行サービス会社を一代で育てた経営者であり、彼が持ち込んだのは競技の理想ではなく、収支を黒字にするという経営者の発想だった。理念の人ではなく、計算の人。その異質さが、危機の五輪には必要だったとも言える。
スポンサーを「絞る」という逆転の発想
ユベロスの戦略のなかでも、とりわけ鮮やかだったのがスポンサー政策である。
それまでの五輪では、できるだけ多くの企業から協賛金を集めるのが当たり前だった。だがLAOOCは逆を行く。業種ごとに一社だけを公式スポンサーに選び、その代わりに高額の協賛料を求めた。たとえば清涼飲料はコカ・コーラ、ファストフードはマクドナルド、クレジットカードはビザ――というように、各分野の「独占的な権利」を売ったのである。
企業にとって、ライバルを締め出して五輪と結びつけるブランド価値は、それだけ高い対価を払う意味があった。スポンサーの数を絞ることで、かえって一社あたりの価値と協賛料が跳ね上がる。この「絞り込み」の発想によって、コーポレート・スポンサーシップだけで一億ドルを超える収入を得たとされる。
放映権でも記録が生まれた。ユベロスはアメリカのテレビ局ABCを相手に交渉し、二億ドルを超える放映権料での契約をまとめたと伝えられる。しかも前払い金を運営資金に充てることで、手元の現金不足という難題も乗り切った。協賛料の前払い、放映権料の前払い、入場料の先行販売――まだ大会が始まる前に現金を集める仕組みを幾重にも積み重ねることで、組織委員会は借入に頼らずに巨大な祭典を運営しようとした。
聖火リレーにも工夫があった。沿道を走る区間の権利を寄付つきで募るなど、従来は単なる演出だったものまで収入の機会へと組み替えたと伝えられる。一見すると理想に水を差すようにも映るが、税金を使えない以上、あらゆる場面を採算の視点で見直す必要があった。理念より収支を優先したという批判もある一方で、その徹底ぶりがなければ黒字はなかったとも言える。
- 1976
モントリオール大会が巨額赤字を残し、五輪開催への忌避が広がる
- 1978
ロサンゼルス市の住民投票で、税金による費用補填をしないと定められたとされる
- 1979
ピーター・ユベロスがロサンゼルスオリンピック組織委員会の責任者に就く
- 1984
ロサンゼルス大会開催。民間主導の運営で大幅な黒字を計上したと報じられる
新しい施設を最小限に抑え、収入を市場から最大化する。支出と収入の両側から黒字を設計するこのやり方は、後に「ロサンゼルス・モデル」とも呼ばれることになる。
黒字という光、そして影
1984年の大会は、財政的には大きな成功を収めた。組織委員会は二億ドルを超える剰余金を生んだとされ、その資金の一部はロサンゼルス周辺の地域スポーツを支援する財団に引き継がれ、長く青少年スポーツの育成に充てられたと伝えられる。赤字の象徴だった五輪が、黒字を残し、後の世代に資産まで遺した――これは確かに、まばゆい成果だった。
この成功は、五輪の運命を変えた。財政破綻を恐れて誰も手を挙げなかった祭典が、にわかに「儲かる事業」として見直され、その後の招致は再び競争の様相を呈していく。商業化が、瀕死の五輪を救った――そう評価する声があるのも事実である。
影もまた、ここから始まっている。スポンサーと放映権が運営の柱になったということは、五輪が企業とテレビの意向を強く受ける祭典になっていくことを意味した。何を、いつ、どのように見せるか――その判断に、お金を出す側の都合が入り込む余地が生まれた。後の連載で見ていくスポンサー制度の拡大も、放送による支配も、その源流はこの1984年にさかのぼる。
ユベロスが示したのは、五輪が市場の論理で運営しうるという証明だった。それは理想を掲げたクーベルタンの近代五輪とも、国家の威信を競った政治の五輪とも違う、第三の五輪――マネーが主役となる時代の幕開けである。賞賛と批判のどちらか一方では、この大会は語りきれない。
こうして五輪は、巨大なカネを生む装置へと姿を変えていく。次に私たちが見つめるのは、その装置を動かすもう一つの心臓――茶の間のテレビが、いかにして五輪そのものを支配するに至ったか、という物語である。
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