クーベルタンの理想 — 近代五輪の誕生
1894年、フランス人貴族クーベルタンの提唱で近代オリンピックが構想され、1896年にアテネで第1回大会が開かれた。アマチュアリズムの理想を掲げた手作りの祭典は、しかし当初から深刻な資金難と隣り合わせだった。理想とお金のせめぎ合いを描く第2話。
2026年6月13日
古代の祭典が消えてからおよそ千五百年。十九世紀の終わりに、その記憶を掘り起こし、世界の若者がふたたび一つの場所で競い合う祭典を夢みた人物がった。フランスの貴族、ピエール・ド・クーベルタンである。彼が掲げたのは、勝敗や報酬ではなく、心身を鍛え、互いに敬意を払って競い合うことそのものに価値を置く理想だった。けれど、高い理想を現実の大会に変えるには、避けて通れない壁があった。会場をどう用意し、選手をどう集め、その費用を誰が払うのか。近代オリンピックは、その最初の一歩から、理想とお金のせめぎ合いのなかに立っていたのだ。
- 1894
パリのソルボンヌで国際的な会議が開かれ、クーベルタンの提唱のもと近代オリンピックの開催と国際オリンピック委員会の設立が決まる。
- 1894
ギリシャ出身のディミトリオス・ヴィケラスが初代の委員長に選ばれ、第1回大会の地はアテネと定められた。
- 1896
第1回近代オリンピックがアテネで開催。14か国前後・およそ240人が参加したと伝えられる手作りの大会となった。
- 1896
資金難のなか、ギリシャ出身の富豪ゲオルギオス・アヴェロフらの寄付で大理石の競技場が整えられ、開催にこぎつけた。
古代の理想を、近代に呼び戻す
クーベルタンが生きた十九世紀のフランスは、敗戦の記憶に沈んでいた。彼は、国を立て直す鍵は若者の心身を鍛えることにあると考え、教育としてのスポーツに強くひかれていく。やがて関心は、古代ギリシャの祭典へと向かった。発掘によってオリンピアの遺跡が姿をあらわし、かつて神に捧げられた競技祭の存在が、ヨーロッパの人々のあいだで語り直されていた時代でもあったのだ。クーベルタンは、その古代の理想を近代によみがえらせようと志した。
1894年、彼はパリのソルボンヌに各国のスポーツ関係者を集め、自らの構想を訴える。この会議で、古代の祭典にならった国際的な競技大会を四年ごとに開くことと、それを運営する国際オリンピック委員会を設けることが決まった。記念すべき第1回の開催地には、五輪のふるさとであるギリシャのアテネが選ばれる。当初クーベルタンは、自国パリで万国博覧会に合わせて開く案も温めていたとされるが、六年も待てば人々の関心が冷めると案じる声もあり、二年後のアテネ開催へと舵が切られたと伝えられる。
委員会の初代の長には、ギリシャ出身の文人ディミトリオス・ヴィケラスが選ばれた。生まれた地で第1回を開くという象徴的な配慮でもあった。こうして、消えていた古代の祭典は、新しい時代の衣をまとってよみがえる準備をととのえていく。けれど、理想を語ることと、実際に世界から選手を集めて大会を開くことのあいだには、大きな隔たりがあった。
そもそも近代の世界に、四年ごとに各国が集う国際的なスポーツの祭典という発想は、ほとんど前例のないものだった。鉄道や蒸気船が国と国の距離を縮め、新聞が遠い出来事を人々に伝えるようになった時代だからこそ、世界の若者が一堂に会するという構想に現実味が生まれたとも言える。クーベルタンの理想は、彼一人の情熱だけでなく、人と情報が国境を越えて動きはじめた近代という時代の空気にも支えられていた。とはいえ、その構想に各国の賛同を取りつけ、資金と会場を用意し、選手をはるばる集めるという仕事は、理想を語る何倍もの労力を要したのだ。
アマチュアリズムという、誇り高き縛り
クーベルタンの理想の中心には、アマチュアリズムという考えがあった。スポーツは金銭のためではなく、それ自体を愛する者が打ち込むべきものだ——彼はそう信じ、報酬を目当てに競技する者を近代の祭典から遠ざけようとした。古代の勝者が手にしたのが一握りのオリーブの冠だけだったように、近代の五輪もまた、お金で動く場であってはならないと考えたのだ。
なお、五輪を語るときよく引かれる「勝つことではなく参加することに意義がある」という言葉も、しばしばクーベルタン自身の名言として伝えられるが、その由来には別の説がある。これは1908年のロンドン大会の頃、ある聖職者が選手たちに語った説教の一節が元になっており、クーベルタンがそれに深く共感して引用したことで広まったとされる。誰が最初に口にしたかはともかく、この言葉が近代五輪の精神をよく言い表しているからこそ、長く語り継がれてきたのだろう。理想を一言で示すこうした言葉が、五輪という営みに独特の重みを与えていった。
手作りの大会と、深刻な資金難
そして1896年、第1回近代オリンピックがアテネで幕を開ける。参加したのは14か国前後、選手はおよそ240人と伝えられ、いまの巨大な大会とは比べものにならない、こぢんまりとした祭典だった。けれど、その準備は順風満帆からはほど遠いものだった。当時のギリシャは財政が厳しく、国家として大会の費用をまかなう余裕に乏しかったのだ。理想を現実にするための先立つものが、決定的に足りなかった。
この危機を救ったのが、民間の力だった。とりわけ、エジプトのアレクサンドリアで富を築いたギリシャ出身の実業家ゲオルギオス・アヴェロフが、メインスタジアムの再建のために巨額の寄付を寄せたと伝えられる。その資金によって、古代の競技場の跡に総大理石づくりの壮麗なスタジアムがよみがえり、数万の観客を迎える舞台がととのった。理想を掲げた祭典が、結局は一人の富豪の財力に支えられて開かれた——この事実は、五輪とお金の関係を考えるうえで象徴的である。
大会の終盤、人々の記憶に深く刻まれたのは、古代の故事にちなんで新たに設けられた長距離走、マラソンだった。地元ギリシャの無名の走者スピリドン・ルイスが先頭で競技場に駆け込むと、観客は熱狂に包まれたと伝えられる。理想と資金難のはざまで産声をあげた近代五輪は、こうして人々の胸に確かな感動を残した。けれど、この祭典が回を重ねるにつれ、それは国家の威信や政治の思惑とも結びついていく。次回は、五輪が国家の祭典へと姿を変えていく時代をたどる。
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