戦後政治の総決算 ― 中曽根とバブルの時代
戦後政治の総決算を掲げた中曽根康弘。土光臨調を背に進めた行政改革、電電と国鉄の民営化、ロンヤスと呼ばれた日米関係、衆参同日選挙での圧勝、そして売上税の挫折。新自由主義の風とバブルの足音のなかで党が絶頂を迎えた一九八〇年代を、史実で深掘りする第六話。
2026年6月13日
派閥抗争の嵐がいったん収まったあと、一九八二年に自民党総裁、そして内閣総理大臣の座に就いたのが中曽根康弘だった。彼が掲げたスローガンは「戦後政治の総決算」。敗戦から積み上げてきた行政や財政の仕組み、そして外交の姿勢までを、根本から見直そうという大きな構えだった。折しも世界では、政府の役割を小さくしようとする新自由主義の風が吹き始めていた時代である。中曽根はその風を受けながら、長期政権のもとで次々と改革を断行し、自民党は経済の絶頂とともに、一つの黄金期を迎える。けれど、その輝きの裏では、後に体制を揺るがすことになる種が、静かに芽生えていた。
- 1981
鈴木善幸内閣のもと、土光敏夫を会長とする第二次臨時行政調査会(第二臨調)が発足。行財政改革の青写真を描いた。
- 1982
中曽根康弘が内閣総理大臣に就任。戦後政治の総決算を掲げ、行政改革を最重要課題に据えた。
- 1983
中曽根がレーガン米大統領と親密な関係を築き、その間柄はロンヤスと呼ばれた。
- 1985
電電公社がNTTへ、専売公社がJTへ移行。九月にはプラザ合意が成立し、急速な円高が進んだ。
- 1986
衆参同日選挙で自民党が圧勝。衆議院で三百議席を超える大勝を収めたとされる。
- 1987
四月に国鉄が分割民営化され、JR各社が発足。十一月に中曽根内閣は退陣した。
土光臨調と、行政改革の旗
中曽根の改革を支えた土台は、彼が総理になる前から準備されていた。一九八一年、鈴木善幸内閣のもとで第二次臨時行政調査会、いわゆる第二臨調が発足する。会長に就いたのは、経済界の重鎮で質素な暮らしぶりでも知られた土光敏夫だった。財政が悪化し、増税に頼らない立て直しが求められるなかで、この調査会は無駄を削り、肥大化した行政を整理する道筋を描いた。当時、行政管理庁長官だった中曽根は、この臨調の答申を強力に後押しする立場にあり、その理念をのちに自らの政権の中核に据えていく。
総理になった中曽根は、増税なき財政再建を旗印に、行政のスリム化を進めた。その象徴とされたのが、三つの公社、すなわち日本電信電話公社、日本専売公社、そして日本国有鉄道の民営化である。国が直接抱えてきた巨大な事業体を、民間の経営にゆだねる——これは戦後の体制を組み替える、大きな決断だった。
一九八五年、電電公社はNTTへ、専売公社はJTへと姿を変える。そして最大の難関とされたのが、巨額の累積赤字を抱えた国鉄の改革だった。労使の対立も激しく、政治的にも極めて重い課題でしたが、中曽根政権はこれを分割民営化という形で断行する。
ロンヤスと、新自由主義の風
中曽根のもう一つの特徴は、外交における存在感だった。とりわけ知られているのが、アメリカのレーガン大統領との親密な関係である。互いをロン、ヤスと呼び合ったことから「ロンヤス関係」と語られたこの間柄は、日米同盟を前面に押し出す中曽根外交の象徴だった。中曽根は西側陣営の一員としての日本の立場を明確にし、首脳どうしの個人的な信頼を外交の力に変えようとしたとされる。
この時代、世界では米英を中心に、政府の役割を縮め、市場の働きにより多くを委ねようとする新自由主義の潮流が広がっていた。規制を緩め、国営の事業を民間に開き、競争を促す——中曽根が進めた行政改革や民営化も、こうした世界的な流れと響き合うものだった。もっとも、日本の改革が欧米の路線をそのまま写したわけではなく、国内の財政事情や政治の力学のなかで独自に形づくられた面も大きいとされ、その性格づけには見方の幅がある。
経済の面でも、一九八〇年代後半は特別な時代だった。一九八五年九月、ニューヨークで主要国がドル高の是正に向けて合意したプラザ合意のあと、急速な円高が進む。輸出に頼る日本経済は一時的に痛手を受けましたが、金融が緩められるなかで、やがて株価と地価が実体以上に膨らんでいく、いわゆるバブル経済へと向かっていった。豊かさの実感が社会を覆い、自民党の長期政権を支える追い風にもなった一方で、後の崩壊の芽がこの時期に育っていたことも、いまでは広く知られている。
同日選の圧勝と、売上税の挫折
中曽根政権の絶頂を象徴するのが、一九八六年の選挙だった。中曽根は衆議院と参議院の選挙を同じ日に行う、衆参同日選挙という大勝負に打って出る。結果は自民党の圧勝で、衆議院では三百議席を超える地滑り的な勝利を収めたとされる。これにより中曽根は本来の総裁任期を超えて続投することが認められ、長期政権の地位を確かなものにした。経済の好調と外交での存在感、そして選挙での圧勝——党はまさに勢いの頂点にあった。
ところが、その勢いに乗って中曽根が踏み込もうとした政策が、思わぬ壁にぶつかる。広く消費に課税する新しい間接税、売上税の導入である。中曽根は同日選挙の前には大型間接税の導入には慎重な姿勢を示していたとされ、それだけに、選挙後に税の導入へと動いた姿勢は、約束との関係をめぐって強い反発を招いた。
野党はもちろん、与党内や経済界、さらには日々の暮らしに直結する税を警戒する世論からも反対の声が噴き出し、売上税の構想は国会で行き詰まる。結局この案は取り下げられ、中曽根は消費への課税という大きな宿題を実現できないまま、一九八七年に政権を後継に託すことになった。広く薄く消費に課税するという考え自体は、その後の政権に引き継がれていくが、それがどのような形で実現していくのかは、また別の物語である。
行政改革、民営化、ロンヤス外交、そして同日選挙での圧勝。一九八〇年代の中曽根政権は、戦後政治の総決算という旗のもと、自民党の力が最も充実した時代の一つを刻んだ。バブルの熱気に包まれ、党は揺るぎないかに見えた。けれど、その絶頂のただ中で、政官財を巻き込む巨大なスキャンダルが、ひそかに姿を現しつつあった。永く続いてきた一党優位の体制そのものを揺るがすことになる、その大きな波が、すぐそこまで迫っていたのだ。
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