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所得倍増の夢 ― 池田・佐藤の黄金期

1960年、日本は二つに引き裂かれた。岸信介の安保改定に国会を取り巻く群衆。その混乱を乗り越え、池田勇人は「所得倍増」を、佐藤栄作は「沖縄返還」を掲げる。政治の季節から経済の季節へ、一党支配を支えた黄金期を中立にたどる。

2026年6月13日

前回まで、私たちは自民党のなかに渦巻く派閥という生態系を見てきた。領袖と子分、総裁選、派閥均衡の人事——党の内側は、たえず権力をめぐって揺れ動く複雑な仕組みだった。けれど、その仕組みの上に乗った日本は、1960年代、世界が目をみはる勢いで経済を駆け上がっていく。この回がたどるのは、政治が大きく荒れた一つの夏を境に、日本が「政治の季節」から「経済の季節」へと舵を切っていく時代である。三人の宰相——「岸信介」「池田勇人」「佐藤栄作」。彼らの選択が、一党支配の黄金期を形づくっていった。

  1. 1960

    「岸信介」内閣が日米安全保障条約の改定をめぐって国会で強行採決。激しい反対運動(安保闘争)が起き、混乱の責任をとって岸は退陣した。

  2. 1960

    後継の「池田勇人」内閣が、10年で国民総生産を倍にすることをめざす「国民所得倍増計画」を閣議決定。経済重視の路線へ転換した。

  3. 1964

    「佐藤栄作」が首相に就任。以後、当時としては戦後最長の長期政権を率いることになる。

  4. 1972

    「佐藤栄作」政権のもと、アメリカの施政権下にあった沖縄が本土復帰を果たした。

引き裂かれた夏 ― 1960年の安保闘争

物語は、一つの激しい夏から始まる。1960年、首相の「岸信介」は、1951年に結ばれた日米安全保障条約の改定に取り組んでいた。旧条約には、米軍が日本に駐留する根拠が一方的に定められているなど、対等性を欠くと批判される点があり、岸はこれをより双務的な内容へ改めようとしたとされる。同年1月、岸は訪米してアメリカ大統領「アイゼンハワー」と新条約に署名した。

ところが、この改定は国内で激しい反対運動を呼び起こする。新条約が日本を再び戦争に巻き込むのではないか、という不安や、改定の進め方への反発が広がり、学生・労働者・市民・知識人を巻き込んだ大規模な運動へと膨らんでいった。これが「安保闘争」である。1960年5月、岸が衆議院で条約の承認を与党単独で強行採決すると、反対運動は頂点に達する。国会議事堂は連日、おびただしい数の人々に取り囲まれた。6月、デモ隊が国会構内に突入する混乱のなかで、一人の女子大学生が亡くなる事態も起いた。予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日は中止に追い込まれる。条約そのものは自然成立しましたが、岸は混乱の責任をとる形で退陣した。

注目すべきは、この激動のさなかでも、同じ年に行われた衆議院選挙では自民党が大勝したことである。街頭の熱気と、投票箱の中の選択は、必ずしも一致しなかった。なぜ与党は揺るがなかったのか——その答えの一つを、次に登場する宰相が示すことになる。

「月給二倍」の魔法 ― 所得倍増計画

岸の後を継いだのが「池田勇人」だった。大蔵官僚出身の池田が掲げた看板は、思想や安全保障ではなく、暮らしそのものだった。「所得倍増」——分かりやすく言えば、給料を倍にしよう、という呼びかけである。1960年12月、池田内閣は「国民所得倍増計画」を閣議決定する。10年のうちに国民総生産を倍にすることを目標に据えた、壮大な経済計画だった。

この計画には、官僚や経済学者たちの緻密な裏づけがあったとされる。当初は「月給二倍」という感覚的な訴えだったものが、財政や投資をどう動かせば成長が実現するかという理論へと組み立てられ、1960年の国民総生産を10年後に約26兆円へと倍増させる、という具体的な目標に練り上げられていったと伝えられる。そして現実は、計画の見込みすら上回った。1950年代半ばから1970年代初めにかけて、日本は年平均でおよそ10パーセントという、世界でもまれな高い成長を続ける。テレビ・洗濯機・冷蔵庫が家庭に行き渡り、人々は手にとれる豊かさを実感していった。

池田の戦略がたくみだったのは、政治の争点を「対立するテーマ」から「みんなが望むテーマ」へとずらした点にある。安保をめぐる激しい分断のあとに、誰もが反対しにくい「豊かさ」を前面に押し出した。政治の温度を下げ、経済成長の果実を一党支配の安定へとつなげていく。この「経済で支持を得る」という型は、その後の自民党政治の太い背骨になっていく。

一方で、急成長には影もあった。各地で深刻な公害が発生し、都市への人口集中と地方の過疎が同時に進み、物価の上昇も人々を悩ませた。豊かさが何を犠牲にして得られたのか——その問いは、のちの時代に重くのしかかってくる。光だけでなく影もあったことは、公平に記しておくべきだろう。

沖縄が還ってきた日 ― 佐藤栄作の長期政権

経済の季節を引き継ぎ、さらに長く政権を担ったのが「佐藤栄作」だった。佐藤は、前に登場した「岸信介」の実弟にあたる。1964年に首相となった佐藤は、当時としては戦後最長の長期政権を率い、安定した経済成長を背景に、長く権力の座にあった。

佐藤政権の歴史的な成果として、まず挙げられるのが沖縄の本土復帰である。第二次世界大戦の後、沖縄はアメリカの施政権下に置かれ、日本本土とは異なる統治のもとにあった。佐藤はアメリカと粘り強い交渉を重ね、1972年5月15日、沖縄の本土復帰を実現させる。日本が戦後、外交によって領土の施政権を取り戻した、大きな出来事だった。また佐藤は1967年、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする「非核三原則」を国会で表明したことでも知られる。1974年には、こうした平和への取り組みを理由に、日本人として初めてノーベル平和賞を受賞した。

岸の安保、池田の所得倍増、佐藤の沖縄返還。三人の宰相が描いたこの黄金期に、自民党は「経済を伸ばし、暮らしを豊かにする党」という顔を確立し、一党支配を盤石にしていった。けれど、ここまでの宰相たちは、いずれも官僚や名門の出身というエリートだった。そこへ、まったく毛色の違う人物が登場する。雪深い地方に生まれ、高等小学校を出ただけの学歴で、土建業から政界へとのし上がった——「庶民宰相」と呼ばれることになる、型破りな男である。次回、その光と影をたどる。

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