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三角大福中の死闘 ― 権力をめぐる十年の劇

三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫・中曽根康弘。五人の領袖がしのぎを削った一九七〇年代の自民党。クリーン三木の登場、ロッキードと三木おろし、角福戦争、そして党を分裂寸前まで追い込んだ四十日抗争まで、派閥政治が最も激しく燃えた時代を史実でたどる第五話。

2026年6月13日

田中角栄が金脈問題で表舞台を退いたあとも、自民党の権力闘争は終わりなかった。むしろ、ここからの十年ほどが、派閥政治が最も激しく燃えた時代だったと言ってよいだろう。三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、そして中曽根康弘。実力者たちの名から一字ずつ取って「三角大福中」と呼ばれた彼らは、総理総裁の座をめぐって、ときに手を組み、ときに刃を向け合った。同じ党の中で繰り広げられた、まるで戦国絵巻のような死闘。その筋書きを、年と人物を追いながらたどっていく。

  1. 1974

    田中角栄が金脈問題で退陣。椎名悦三郎副総裁の裁定により三木武夫が総裁に選ばれたとされる。

  2. 1976

    ロッキード事件が表面化。徹底究明を掲げた三木に対し党内で三木おろしが強まる。十二月の総選挙で自民党は単独過半数を割り、三木は退陣した。

  3. 1976

    福田赳夫が総裁に就任。大平正芳との間で、任期後に大平へ譲るとの大福密約があったと伝えられる。

  4. 1978

    新方式の総裁予備選で大平正芳が福田を破る。福田は再選を断念した。

  5. 1979

    十月の総選挙後、大平続投か福田返り咲きかで党内が割れ、四十日抗争と呼ばれる激しい抗争に発展した。

  6. 1980

    内閣不信任案可決を受けた衆参同日選挙のさなか、大平正芳が急逝。自民党は同情票も集めて大勝したとされる。

クリーン三木の登場と、三木おろしの嵐

一九七四年、田中角栄が金脈問題で退陣すると、後継選びは難航した。田中派と福田派が真正面からぶつかれば党が割れかねない。そこで動いたのが、椎名悦三郎副総裁である。彼が指名したのは、本命とは見られていなかった三木武夫だった。長く党内で少数派を率い、清廉なイメージを持つ三木を担ぐこの決定は、のちに椎名裁定と呼ばれる。本流の実力者たちが相打ちを避けた結果、傍流の三木に順番が回ってきた——派閥均衡の力学が生んだ、いかにもこの時代らしい人事だった。

「クリーン三木」を看板に掲げた三木内閣は、政治資金規正法や公職選挙法、独占禁止法の改正に取り組み、社会的な不公正の是正を訴えた。金権政治への批判が高まるなかで、その姿勢は世論の一定の支持を得たとされる。しかし、党内の本流派閥から見れば、少数派から担ぎ上げた宰相が、自分たちの足元を揺るがしかねない改革を進めるのは穏やかではなかった。

決定的だったのが、一九七六年に表面化したロッキード事件である。三木が事件の徹底究明を掲げて検察の捜査を後押しする姿勢を見せると、田中角栄を逮捕に追い込む流れに不満を募らせた党内の実力者たちが、いっせいに反発した。福田・大平・田中らの派閥を中心に三木を引きずり下ろそうとする動きが強まり、これは三木おろしと呼ばれる。三木は粘り強く抵抗しましたが、その年末の総選挙で自民党は単独過半数を割る痛手を負い、三木はその責任を取る形で退陣した。同じ事件をめぐって、片や究明を急ぐ宰相、片やそれを阻もうとする党内勢力——評価の分かれるこの対立は、自民党という巨大与党の内側の緊張を、くっきりと映し出している。

大福密約と、角福戦争

三木のあとを継いだのは福田赳夫だった。大蔵官僚出身で経済に明るく、品格を重んじる福田は、田中とは対照的なタイプの政治家として知られる。実はこの福田と大平正芳のあいだには、福田が一期務めたあとは大平に総裁を譲るという「大福密約」があったと伝えられている。当面の協調のために交わされたこの約束が、のちに大きな火種になった。

一九七八年、自民党は党員も参加する新しい方式の総裁予備選を初めて実施する。誰もが福田の優位を疑いませんでしたが、ふたを開けると、田中派の全面的な支援を受けた大平が予想を覆して福田を上回った。福田は本選挙を辞退し、大平が総裁の座に就く。密約があったとはいえ、自ら退くつもりのなかった福田にとって、これは屈辱的な敗北だった。

この大平と福田の根深い対立、そしてその背後にある田中の影響力をめぐる争いは、二人の名から「角福戦争」と呼ばれた。角栄と福田、すなわち田中派と福田派の長きにわたる確執が、党のあらゆる局面に影を落としていく。総理の椅子は一つしかなく、領袖たちはその一つをめぐって、同じ党の旗のもとで延々と戦い続けたのだ。

四十日抗争 ― 党が割れかけた四十日間

角福の対立が頂点に達したのが、一九七九年の四十日抗争である。きっかけは、その年十月の衆議院総選挙だった。大平総裁のもとで臨んだこの選挙で、自民党は議席を減らし、思うような結果を残せなかった。これを好機と見た反主流派は、選挙の敗北の責任を取って大平は退くべきだと迫る。これに対し主流派は大平続投を主張し、党は大平を担ぐ勢力と福田の返り咲きを求める勢力とに、真っ二つに割れた。

総選挙のあと、首相を指名する国会の場で、自民党は前代未聞の事態に陥る。本来なら党として一人の候補に票をまとめるはずが、主流派は大平に、反主流派は福田に投じ、与党が二人の候補を立てて争うという異常な光景が出現した。およそ四十日間にわたって続いたこの内紛は、自民党史上でも屈指の危機とされ、一時は党の分裂すら現実味を帯んだ。最終的には大平が首相に再指名され、第二次大平内閣が発足しましたが、党内に残した亀裂は深いものだった。

そして翌一九八〇年、その亀裂はさらに劇的な展開を生む。反主流派が衆議院に提出した内閣不信任案の採決で、主流派の福田・三木系の議員らが本会議を欠席し、不信任案が可決されてしまったのだ。同じ党の議員が、自党の内閣を倒すという出来事だった。大平は衆議院を解散し、参議院選挙と重なる初の衆参同日選挙に打って出る。ところがその選挙戦のさなか、大平は持病が悪化して急逝した。総理大臣が選挙期間中に亡くなるという衝撃のなか、自民党は同情の票も集めて大勝したと伝えられている。皮肉にも、領袖の死が党をいったん結束させたのだった。

三木の改革志向、福田と大平の宿命的な対立、田中の隠然たる影響力、そして死闘の合間に着実に存在感を増していた中曽根康弘。「三角大福中」と呼ばれた五人の物語は、まさに自民党という巨大与党が、内側にいくつもの権力をはらんだ生態系であったことを物語っている。やがてこの抗争の季節が一区切りつくと、生き残った一人の実力者が、戦後の枠組みそのものを問い直す大きな旗を掲げて、政治の中心に立つことになる。

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