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今太閤・田中角栄 ― 庶民宰相と金権政治

雪深い新潟に生まれ、高等小学校卒の学歴で総理まで上りつめた「今太閤」田中角栄。日本列島改造論、電光石火の日中国交正常化、そして金脈問題とロッキード事件。庶民宰相の光と影を、公的記録と判決の範囲で中立にたどる。

2026年6月13日

前回まで、私たちは「岸信介」「池田勇人」「佐藤栄作」という、官僚や名門の出身者たちが率いた黄金期を見てきた。日本は経済成長の波に乗り、自民党は安定した一党支配を築いていた。けれど、この回の主役は、それまでの宰相とはまったく出自の異なる人物である。雪深い地方の貧しい家に生まれ、高等小学校を出ただけの学歴で、土建業から政界へとのし上がった——「今太閤(いまたいこう)」とも呼ばれた「田中角栄」。その鮮烈な台頭と、彼の名とともに語られることになる「金権政治」という言葉を、公的な記録と判決の範囲で、冷静にたどっていく。

  1. 1972

    「田中角栄」が自民党総裁選を制し、第64代内閣総理大臣に就任。著書『日本列島改造論』を政策の柱に掲げた。

  2. 1972

    首相就任からわずか約2か月後、田中が訪中。日中共同声明が出され、日中国交正常化が実現した。

  3. 1974

    雑誌『文藝春秋』が田中の資産形成をめぐる記事を掲載(田中金脈問題)。批判が強まり、田中は退陣を表明した。

  4. 1976

    ロッキード事件で、田中が受託収賄などの疑いで逮捕された。

  5. 1983

    一審で田中に有罪判決。田中は控訴し、無罪を主張し続けた。

雪国から永田町へ ― 「庶民宰相」の登場

「田中角栄」の物語は、その出自からして異例だった。新潟県の雪深い農村に生まれ、家庭は豊かではなく、進学した学歴も高等小学校どまり。大学を出た官僚や、政治家の家に生まれた者が要職を占める永田町にあって、これはきわめて珍しい経歴だった。上京して土建業で身を立て、戦後まもなく政界へ入ると、めきめきと頭角を現する。郵政大臣、大蔵大臣、通商産業大臣といった重職を歴任し、1972年、ついに自民党総裁の座を射止め、内閣総理大臣に就任した。

人々は彼を「今太閤」と呼んだ。低い身分から天下人にまで上りつめた戦国の武将になぞらえた呼び名である。エリートではない叩き上げが頂点に立ったことは、多くの庶民に痛快な物語として受け止められたとされる。官僚や財界のエリートが目を向けなかった地方や農村の暮らしに、田中はこだわり続けた——その姿勢が、都市に偏りがちだった成長の恩恵から取り残された人々の、強い支持を集めたと伝えられる。

田中の政治家としての力量は、しばしば「数字と人事に強い」と評された。複雑な予算や法律の細部を頭に入れ、人の事情を覚え、面倒を見る。その面倒見のよさと人間的な魅力が、強固な支持基盤と巨大な派閥を育てていく。彼が築いた派閥は、後の自民党政治を長く左右する力を持つことになった。

列島改造と電光石火の外交 ― 角栄政治の絶頂

首相となった田中が政策の柱に掲げたのが、自らの著書『日本列島改造論』だった。1972年に発表されたこの構想は、東京への一極集中を是正し、高速道路や新幹線で全国を結び、産業や人口を地方へ分散させることで、国土の「均衡ある発展」をめざすという壮大なものだった。都市の過密と地方の過疎を同時に解こうとする発想は、地方出身の田中らしい視点に貫かれていた。

外交でも、田中は鮮やかな手腕を見せる。首相就任からわずか約2か月後の1972年9月、田中は中国・北京を訪れ、毛沢東や周恩来らと会談した。そして日中共同声明が出され、長く国交のなかった日本と中国の国交正常化が実現する。電光石火と言うべきこの決断は、田中政治の絶頂を象徴する出来事として記憶されている。

しかし、列島改造論には影もつきまとった。全国的な開発への期待が、地価の急騰や投機を招いたと指摘される。折しも1973年には石油危機が起こり、物価が激しく上昇する「狂乱物価」と呼ばれる事態のなかで、大規模開発を進める構想は、インフレを助長したとの批判にさらされていった。壮大な未来図は、現実の経済の荒波のなかで、見直しを迫られていったのだ。

金脈とロッキード ― 光が落とした影

田中政治に決定的な転機が訪れたのは、1974年だった。雑誌『文藝春秋』が、田中の巨額の資産がどのように形づくられたのかを追った記事を掲載する。ジャーナリスト「立花隆」による「田中角栄研究」をはじめとするこの特集は、田中とその関連企業をめぐる資産形成の実態を詳細に報じたものだった。一本のレポートをきっかけに田中への批判は一段と強まり、同年11月、田中は退陣を表明する。雑誌の記事が引き金となって政権が倒れるという、当時としては前例のない出来事だった。これが「田中金脈問題」と呼ばれる一件である。

退陣後、さらに大きな事件が田中を襲う。1976年に表面化した「ロッキード事件」である。これは、アメリカの航空機メーカー、ロッキード社が、旅客機を各国に売り込むために政府高官らへ多額の資金を渡していたことが、アメリカ議会の証言から明るみに出た、世界的な汚職事件だった。日本では、全日空による旅客機の選定をめぐり、元首相の田中が、商社を通じて多額の資金を受け取ったとして、1976年7月、受託収賄などの疑いで逮捕される。現職を退いていたとはいえ、元総理大臣の逮捕は、社会に大きな衝撃を与えた。

田中は一貫して無罪を主張し続けた。裁判は長く続き、1983年の一審では有罪の判決が下されるが、田中はただちに控訴する。その後も争われた裁判は、最終的な決着を見ないまま終わった。田中が1993年に亡くなり、刑事裁判は被告人の死亡によって打ち切られたため、最高裁の判断は示されず、有罪が確定することはなかったのだ。事件の評価は、今なお論じられ続けている。

田中角栄という存在は、自民党の歴史のなかでも、ひときわ強い光と濃い影をあわせ持つ宰相だった。庶民の希望を体現した「今太閤」であり、同時に「金権政治」という言葉とともに語られる人物でもある。その評価は、簡単には一つに定まらない。けれど、彼が政界の表舞台を去っても、物語は終わりなかった。田中が築いた巨大な派閥は、その後も党内で大きな影響力を持ち続け、権力の座をめぐる争いは、いっそう激しさを増していく。次回は、いくつもの派閥が入り乱れて繰り広げた、総裁の座をめぐる死闘の時代へと進む。

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