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賃金が上がらない国 ― 停滞の正体を探して

30年で名目賃金がほとんど増えなかった国――それが日本だった。なぜ給料は上がらなかったのか。低い生産性、ふくらむ企業の内部留保、デフレ下の経営、雇用の慣行。成長と分配が噛み合わなかった理由を、ひとつの犯人に決めつけず、複数の視点から丁寧にほどく。

2026年6月13日

アベノミクスのもとで株価は上がり、雇用は改善した。それでも多くの人が「豊かになった」と感じられなかった理由は、はっきりしている。給料が、ほとんど増えなかったからである。

これは一企業や一時期の話ではない。30年という長い時間をかけて、日本の賃金は世界のなかでほとんど唯一といっていいほど横ばいを続けた。ある国際比較によれば、1991年から2020年にかけて、日本の名目賃金が約1.1倍にとどまったのに対し、アメリカは約2.8倍、イギリスは約2.7倍に伸びたとされる。お隣の韓国にいたっては、別の指数で30年あまりのうちに5倍を超えて上昇したという推計もある。

なぜ、日本だけが立ち止まったのか。この問いには、ひとつの単純な答えがない。本稿では「賃金が上がらない国」の正体を、ひとつの犯人に決めつけることなく、いくつかの角度からほどいていく。

増えなかった給料 ― 数字が語る停滞

まず、停滞の事実を確かめておく。

物価を考慮しない「名目賃金」でみても、日本の伸びは先進国のなかで際立って小さいものだった。さらに、物価の影響を除いた「実質賃金」でみると、暮らしの実感はいっそう厳しくなる。働き盛りの世代の賃金は、1990年代後半の水準を今なお下回る、という分析もあるほどである。

興味深いのは、この停滞が「物価も賃金もともにほとんど上がらない」という、先進国では珍しい形をとった点である。多くの国では、物価が上がれば賃金もある程度それを追って上がる。ところが日本では、長く続いたデフレのもとで、物価も賃金も低いところで固定されてしまった、と指摘されている。

ただし、賃金が上がらなかったことには「悪い面」だけでなく、別の側面もあった、という見方も存在する。賃金を無理に上げず雇用を守ることを優先した結果、失業率が他国ほど跳ね上がらずに済んだ、という解釈である。痛みをどこで引き受けるか――その配分が、他国とは違っていたのかもしれない。

生産性という宿題

賃金が上がらない理由としてよく挙げられるのが、「生産性が低いから」という議論である。

ここでいう生産性とは、働く人ひとりが一定の時間でどれだけの価値を生み出すかを示す指標である。国際比較では、日本の労働生産性は主要先進国(G7)のなかで低い位置にあるとたびたび報告されてきた。生み出す価値が伸びなければ、分配できる賃金も増えにくい――この理屈には一定の説得力がある。

  1. 1997

    金融危機を機に、企業は人件費の抑制と非正規雇用の活用を強める。

  2. 2000

    デフレが定着し、物価も賃金も上がりにくい状態が続く。

  3. 2013

    アベノミクス開始。株高・雇用改善の一方、実質賃金は伸び悩む。

  4. 2020

    30年間で名目賃金がほぼ横ばいだったとの国際比較が注目を集める。

ただし「生産性が低いから賃金が上がらない」という説明は、原因と結果が逆ではないか、という反論も受けてきた。賃金が低く抑えられているからこそ、企業が省力化やデジタル化に投資せず、結果として生産性が伸び悩んだ――そういう見方である。安い労働力に頼れるうちは、わざわざ機械やソフトに投資しなくても回ってしまう。生産性と賃金は、どちらか一方が原因というより、互いに足を引っ張り合っていた可能性がある。

加えて、日本特有の雇用の慣行も関わっているとされる。長く同じ会社に勤めることを前提とした仕組みのもとでは、企業は不況でも簡単には解雇せず、その代わり好況でも大きく賃金を上げにくい。安定と引き換えに、賃金の伸びしろを手放していた面があった、という指摘である。

内部留保は、どこへ向かったのか

停滞の正体を語るとき、しばしば話題にのぼるのが、企業にたまった「内部留保」である。

内部留保とは、企業が利益のうち配当や投資などに回さず、社内にためてきたお金(利益剰余金)のことである。日本企業のこの蓄積は年々ふくらみ、財務省の統計で500兆円を超える規模に達したと報じられ、しばしば過去最高を更新してきた。「これだけため込んでいるなら、賃金や投資に回せばいいではないか」という批判は、繰り返し向けられてきた。

ここに、この連載が追ってきた「失われた30年」の核心のひとつがある。経済が成長しても、その果実が働く人への分配(賃金)へと十分に回らなかった。成長と分配をつなぐ歯車が、どこかで噛み合わなくなっていた――。その歯車が狂った原因は、デフレなのか、生産性なのか、雇用慣行なのか、企業の慎重さなのか、それとも政策なのか。専門家の間でも、重点の置き方は分かれ続けている。

確かなのは、これらが互いに絡み合った複合的な現象であり、ひとつの「悪者」を見つけて済む話ではない、ということである。賃金が上がらない国の正体は、誰か一人の失敗ではなく、危機の記憶と慣行と思い込みが積み重なってできた、分厚い地層のようなものだった。

そして、賃金や生産性をめぐるこうした議論の足元では、もっとゆっくりと、しかし確実に進む別の変化があった。働く人そのものが、年々減っていく――。人口という、政策では簡単に動かせない大きな潮の流れである。経済の足元では、もっと根深い変化が静かに進んでいたのだ。

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