不良債権という亡霊 ― 銀行も潰れる、を知った秋
バブル崩壊が銀行の帳簿に残した不良債権は、先送りされるうちに膨れ上がった。貸し渋りが企業を締めつけ、1997年から98年、三洋証券・拓銀・山一・長銀が次々と倒れる。銀行は潰れないという常識が崩れた金融危機を、史実に即して描く第2話。
2026年6月13日
1997年11月24日、東京で開かれたひとつの記者会見が、テレビの前の多くの人の記憶に刻まれた。創業100年を数える四大証券の一角、山一證券の社長が、自主廃業を発表しながら声を詰まらせ、社員は悪くない、と頭を下げた場面である。その一週間前には、北海道を地盤とする大手都市銀行、北海道拓殖銀行が経営を断念していた。銀行や大証券は決して潰れない——戦後の日本で半ば常識とされていたその前提が、わずか数週間のあいだに崩れ落ちたのだ。前回たどった宴のあとの坂道は、ここで金融システムそのものを揺るがす危機へと姿を変える。亡霊の正体は、銀行の帳簿に積もり続けた不良債権だった。
- 1992
資産価格の崩落が数字で確認され、担保価値の下落で銀行に不良債権が積み上がり始める。
- 1995
住宅金融専門会社の経営破綻が表面化。処理をめぐる議論が翌年の国会を紛糾させる。
- 1996
住専処理に6850億円の公的資金を投じる法案が成立。税金投入への世論の反発は強かった。
- 1997
11月、三洋証券・北海道拓殖銀行・山一證券が相次いで破綻し、金融システム不安が一気に広がる。
- 1998
10月、金融再生法などが成立し、日本長期信用銀行が一時国有化される。年末には日本債券信用銀行も同様の処理に。
帳簿の奥で膨らんだ亡霊
不良債権とは、貸したお金のうち、約束どおりには返ってこない見込みになったもののことである。バブルの時代、銀行は値上がりする土地や株を担保にとって、惜しみなく融資をしていた。ところが担保の価値が崩れ、借り手の経営も傾くと、その融資の多くが回収困難なものへと変わっていく。資産価格の崩落が数字で裏づけられた1992年ごろから、この亡霊は銀行の帳簿の奥で、静かに、しかし着実に膨らんでいった。
厄介だったのは、その全体像が長いあいだ霧の中にあったことである。担保の土地がまた値上がりすれば不良債権は健全な貸し金に戻る——そんな期待もあって、銀行も監督する側も、傷の深さを正面から測ろうとはしなかったとされる。問題を先送りすれば時間が解決してくれるという思い込みは、結果として傷を膿ませた。地価は戻らず、隠れていた損失は、年を追うごとに大きくなっていったのだ。
最初に世間を驚かせたのが、住宅金融専門会社、いわゆる住専の破綻だった。住専は個人向け住宅ローンを担うはずの会社でしたが、バブル期には不動産向けの融資にのめり込み、崩壊とともに巨額の焦げつきを抱える。その後始末をめぐり、1996年には公的資金、つまり税金を投じる是非が国会で激しく争われた。最終的に6850億円の投入が決まるが、当時の世論調査では税金投入への賛成はごくわずかで、反対が大多数を占めたと伝えられる。民間の失敗をなぜ税金で、という怒りは、その後の危機対応を縛る重しにもなっていった。
貸し渋り、そして倒産の連鎖
不良債権を抱えた銀行は、自らの体力を守るために守りに入る。新たな融資をためらい、すでに貸したお金の早期返済を求める——いわゆる貸し渋りや貸しはがしである。問題のある融資先だけでなく、健全に商売をしていた中小企業までもが、必要な資金を断たれて資金繰りに苦しんだ。銀行の傷が、銀行の外の経済全体へとにじみ出していったのだ。
緊張が頂点に達したのが1997年の11月だった。まず月の初めに、中堅の三洋証券が会社更生法の適用を申請して破綻する。これが金融機関どうしが短期の資金を融通し合う市場で初の焦げつきを生み、お互いを疑い始めた金融機関は資金を出し渋るようになった。資金繰りに窮した先から、連鎖が始まる。11月17日には北海道拓殖銀行が自力再建を断念し、24日には山一證券が自主廃業へと追い込まれた。三洋、拓銀、山一が週替わりで倒れた、いわば悪夢の一カ月だった。
この年は、消費税率の引き上げやアジア通貨危機も重なり、経済の地合いそのものが弱っていた。複数の重しが同時にのしかかったことが危機を深めたという見方もあれば、根にある不良債権の処理を先送りしてきたツケがついに噴き出したのだという見方もある。どの要因をどれだけ重く見るかで、評価は分かれる。確かなのは、銀行も大証券も潰れるという現実を、人々がこの秋に初めて肌で知ったということだった。
公的資金という、苦い決断
倒産が金融機関どうしの不信を呼び、それがさらなる倒産を生む。この悪循環を断つには、もはや銀行を一つひとつ市場の判断に委ねているわけにはいきなかった。1998年、政府は金融再生法などの枠組みを整え、経営に行き詰まった大手銀行を一時的に国の管理下に置く、いわゆる一時国有化に踏み切る。10月には日本長期信用銀行が、続いて日本債券信用銀行が、この処理の対象となった。
税金を投じることへの世論の抵抗は、住専のときと同じく根強いものだった。それでも、危機が連鎖して経済全体が止まってしまえば、結局は国民が最も大きな代償を払うことになる——そうした判断のもとで、公的資金の投入と国有化という苦い決断が下されていく。一時国有化された長銀は、のちに外国の投資グループへ譲渡され、別の名を持つ銀行として再出発した。
こうして倒産の連鎖はひとまず食い止められ、金融システムは崩壊の縁から引き戻された。しかし、危機を抜けたはずの日本経済の前には、もうひとつの奇妙な難所が口を開けていた。物価が上がるどころか、じわじわと下がり続ける——世界の多くの国がほとんど経験したことのない、その罠の正体を、次回たどっていく。
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