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痛みを伴う改革 ― 光と影をまとった構造改革

2001年に登場した「小泉」政権は、聖域なき構造改革を掲げた。不良債権処理、規制緩和、郵政民営化――戦後最長の景気回復をもたらしたとされる一方、格差の拡大も指摘された。礼賛も断罪もせず、評価が割れる改革の光と影を中立に見つめる。

2026年6月13日

前話で私たちは、就職氷河期という長い影を見た。バブル崩壊が残した不良債権の重みは、銀行を通じて経済全体をきしませ、新しく社会へ出ようとする世代に、もっとも重くのしかかった。

その閉塞のなかで、危機の処方箋として掲げられたのが「構造改革」だった。2001年、自民党総裁選を制して首相となった「小泉純一郎」は、「聖域なき構造改革」「改革なくして成長なし」というわかりやすい言葉を掲げ、高い支持率とともに登場した。

この回で描くのは、ある政権の善し悪しの判定ではない。当時の改革が何をしようとし、何をもたらしたとされるのか――その光と影を、できるだけ中立に見つめることである。改革をめぐる評価は今も鋭く分かれており、安易に礼賛も断罪もできない。だからこそ、複数の見方を並べて進めたい。

不良債権という宿題に、決着をつける

「小泉」政権が最初に迫られたのは、前話までに見てきた巨大な宿題――銀行が抱え込んだ不良債権の処理だった。

1990年代を通じて、不良債権はたびたび処理が試みられながら、そのたびに先送りされてきたとされる。景気が悪いときに厳しく処理すれば、企業の倒産や失業が増える。それを恐れて踏み込めず、問題が長引いた、という見方は多い。

2002年9月、「小泉」首相は金融担当大臣に経済学者出身の「竹中平蔵」を起用した。「竹中」は就任から間もなく「金融再生プログラム」を打ち出す。その柱は、主要行の不良債権比率を2005年3月期までに半分に減らすという、期限を区切った数値目標だった。資産査定を厳しくし、自己資本が不足する銀行には公的資金の投入や国有化も辞さない――そうした強い姿勢が示されたと伝えられる。

その象徴とされるのが、2003年のりそな銀行をめぐる出来事である。同行は自己資本比率が健全とされる水準を下回ったことが判明し、預金保険法に基づいて約2兆円規模の公的資金が注入され、実質的に国の管理下に置かれた。大きな銀行であっても例外としない――その姿勢が、市場に一定のメッセージを与えたとされる。

規制緩和と民営化 ― 小さな政府をめざして

構造改革のもう一本の柱は、規制緩和と民営化だった。背景には、「民間にできることは民間に」「官から民へ」という、いわゆる小さな政府をめざす考え方があったとされる。

象徴的だったのが郵政民営化である。「小泉」首相が「改革の本丸」と位置づけたこの構想は、巨額の資金を扱う郵便貯金・簡易保険を官の手から民間へ移すことをねらいとした。党内の反対も激しく、関連法案はいったん参議院で否決される。すると「小泉」首相は衆議院を解散し、2005年の総選挙を「郵政選挙」として戦った。結果は与党の大勝で、同年秋に郵政民営化関連法が成立した。

このほか、労働者派遣の対象業務の拡大など、雇用や産業をめぐる規制の見直しも進められた。市場の競争を促し、経済を活性化させる――それが改革の論理だった。

  1. 2001

    「小泉純一郎」が首相に就任し、聖域なき構造改革を掲げる

  2. 2002

    「竹中平蔵」が金融担当相に。金融再生プログラムを打ち出す

  3. 2003

    りそな銀行に約2兆円規模の公的資金が注入され、実質国有化とされる

  4. 2005

    郵政選挙で与党大勝。郵政民営化関連法が成立する

  5. 2006

    「小泉」内閣が退陣。在任は5年余りに及んだ

ただし規制緩和の評価もまた、割れている。競争を通じて効率や利便性が高まったとする見方がある一方、雇用の不安定化や、地域によっては公共サービスの後退につながったのではないかという懸念も語られてきた。改革が何を生み、何を削ったのか――その勘定は、立場によって違って見える。

戦後最長の景気回復と、広がる格差論争

こうした改革と並行して、2000年代半ばの日本は、ゆるやかな景気回復を経験した。2002年初めから2008年初めまで、73か月にわたって続いたこの拡大は、当時としては戦後最長とされ、後に「いざなみ景気」とも呼ばれた。輸出に支えられた企業業績は改善し、株価も持ち直した。

だが、この回復には独特の影があった。「実感なき景気回復」という言葉がしばしば使われたように、企業の収益が伸びても、働く人々の賃金には十分に回らない、という感覚が広がっていたのである。

同じ時期、格差の拡大をめぐる議論が高まった。非正規雇用の比率は長期的に上昇を続け、ある統計では1985年から2008年にかけて全体のおよそ16%から34%へとほぼ倍増したとされる。働いても生活が苦しい層を指す「ワーキングプア」という言葉や、格差社会という表現が、この頃から広く使われるようになった。

光と影は、分かちがたく

2006年、「小泉」内閣は5年余りの在任を終えて退陣した。残されたのは、決着へ向かった不良債権処理と、回復した企業業績、持ち直した株価という「光」と、実感を伴わない回復や広がったとされる格差という「影」だった。

ここで立ち止まって考えたいのは、なぜ評価がこれほど割れるのか、ということである。ひとつには、改革がめざした「効率」や「競争」と、人々が求める「安心」や「公平」とが、しばしばぶつかり合う価値だからだろう。金融システムの安定を取り戻すための厳しい処理は、同時に誰かの仕事を奪う。市場を活性化させる規制緩和は、同時に雇用を不安定にする側面を持つ。光と影は、別々に存在するのではなく、しばしば同じ政策の表と裏として現れる。

確かなのは、この時期に日本が、先送りしてきた宿題のいくつかに向き合おうとしたということだ。その結果をどう採点するかは、立場と、見る時間の長さによって変わる。短期の混乱を重く見るか、長期の構造変化を重く見るか――そこに唯一の正解はない。

そして、ようやく見え始めた回復の足取りも、長くは続かなかった。2008年、太平洋の向こうで起きた巨大な金融危機が、世界経済を震わせる。輸出に支えられていた日本の回復は、そのうねりのなかで、一気に押し流されていくことになる。次話は、二度目の崖の物語である。

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