宴のあと ― 史上最高値3万8915円から、坂道は始まった
1989年の暮れ、日経平均は3万8915円という史上最高値をつけた。誰もが宴の続きを信じていたその時、坂道はもう始まっていた。総量規制と五度の利上げ、株と土地の暴落。失われた30年の入口となったバブル崩壊を、データに即してたどる第1話。
2026年6月13日
1989年12月29日、その年の最後の取引日だった。東京証券取引所の大納会で、日経平均株価は3万8915円という値をつけて引ける。これが、いまもなお破られたとされる時期まで長く語られた、ひとつの頂だった。年の初めには3万円ほどだった株価が、わずか一年でおよそ3割も駆け上がった計算になる。市場は浮かれ、翌年は5万円、数年で10万円という強気の声さえ響いていたと伝えられる。けれど、頂とは下り坂の始まりでもある。誰もが宴の続きを信じていたまさにその瞬間に、長い坂道はもう静かに動き出していた。この連載が描く「失われた30年」は、この祝祭の絶頂から幕を開ける。
- 1985
プラザ合意で円高が進み、景気の落ち込みを支えるため金融が緩和され、あふれた資金が株と土地に向かったとされる。
- 1989
12月29日の大納会で日経平均が3万8915円をつけ、当時の史上最高値を記録する。
- 1990
1月から株価が反落。3月に大蔵省が不動産融資の総量規制を通達し、地価高騰に歯止めをかけにいく。
- 1991
地価が全国でピークをつけ、下落へ転じる。総量規制は同年末に解除される。
- 1992
基準地価が調査開始以来はじめて全国平均でマイナスとなり、資産価格の崩落が数字で確かめられる。
宴は、なぜこれほど膨らんだのか
物語の前提を、少しだけさかのぼる。1985年、主要国がドル高の是正で合意した、いわゆるプラザ合意のあと、日本では急速に円高が進んだ。輸出に頼る経済は冷え込みを心配し、それを支えるために金融が緩められていく。公定歩合と呼ばれた当時の基準金利は段階的に下げられ、世の中には借りやすい安いお金があふれていった。
行き場を求めたその資金が、向かった先が株式と土地だった。値上がりするから買う、買うからさらに値上がりする——この循環が回り始めると、価格は実体から離れて自分で膨らんでいく。土地は決して下がらないという、いわゆる土地神話が人々の常識になり、企業も個人も、土地を担保にお金を借りては、また土地や株を買った。都心の地価は、その土地で得られる家賃や利益からは説明できない水準まで跳ね上がったとされる。
これがのちに「バブル」と呼ばれる状態である。泡という言葉のとおり、中身よりも見かけが大きく膨らんだ経済だった。当時それを泡だと言い切れた人は、決して多くない。好景気の高揚のなかで、企業の財テク、豪華な消費、地上げといった光景が日常になり、宴はまだまだ続くと、多くの人が信じていたのだ。
坂道のはじまり ― 引き締めと総量規制
膨らみすぎた泡を、誰かが止めにかかる。資産価格の高騰、とりわけ庶民が家を持てないほどの地価高騰は、社会問題として強い批判を浴びていた。日本銀行は1989年5月に公定歩合の引き上げに転じ、その後も連続して利上げを重ねていく。安かったお金は、しだいに高いお金へと変わっていった。
決定的な一手とされるのが、1990年3月に大蔵省が金融機関へ通達した、不動産融資の総量規制である。これは、不動産向けの貸し出しの伸びを、貸し出し全体の伸びの範囲内に抑えるよう求めるもので、土地を買うための資金が銀行から流れ込むのを細らせる狙いだった。土地神話を支えていた燃料、つまり際限なく供給されていた信用そのものに、栓がはめられたのだ。
効果は劇的だった。土地を買い続けるための資金が途絶えると、上がるから買うという循環は逆回転を始める。株価は1990年の年明けから崩れ落ち、その年の1月だけで日経平均は1700円以上も下げた。地価はやや遅れて1991年にピークをつけ、そこから長い下落へ転じる。やがて基準地価は1992年に全国平均ではじめてマイナスを記録し、土地は下がらないという神話は数字の上で崩れ去った。
下げ相場は、一度ですべてが終わったわけではない。日経平均が最高値の半値を割り込むまでには、その後およそ2年8カ月を要したと伝えられる。つまり崩落は、ある日の暴落として完結したのではなく、何年もかけてじわじわと資産を削り続ける、長い下り坂として進んでいったのだ。値が戻ると信じて持ち続けた人ほど、損失は深くなった。
宴のあとに残されたもの
バブルの崩壊で失われたのは、帳簿上の数字だけではなかった。値上がりを当て込んで土地や株を買った企業や個人は、価格が下がっても返さなければならない借金だけを抱えることになる。資産は縮み、借金は残る——この重さが、その後の日本経済に長くのしかかっていく。人々は財布のひもを締め、企業は投資をためらい、経済全体が縮こまっていった。
なかでも見落とされがちなのが、お金を貸した側、すなわち銀行が負った傷である。銀行は土地や株を担保にとって巨額の融資を行っていた。その担保の価値が崩れたとき、貸したお金が返ってこない恐れ、いわゆる不良債権が、銀行の帳簿の奥に静かに積み上がっていく。最初のうち、その総額がどれほどなのかは、当の銀行にも、監督する側にも、正確にはつかめていなかったとされる。
問題を先送りすれば、いつか軽くなるかもしれない——崩落の直後には、そんな期待もあったと言われる。地価がまた上がれば担保価値は戻り、傷は癒えるはずだ、と。しかし地価は戻らず、傷は癒えるどころか、時間とともに膿んでいった。宴のあとの静けさのなかで、誰も正面から見ようとしなかったその傷こそが、次の10年を覆う影の正体になっていく。
こうして、史上最高値という頂から日本経済は下り始めた。消えた資産、残った借金、そして銀行の奥に積もり始めた不良債権。宴のあとに残されたこれらのものが、やがて金融システムそのものを揺るがす危機へと育っていく。坂道は、まだ始まったばかりだった。
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