アイドルとニューミュージック ― 歌謡曲、最後の黄金期
テレビの光のなかで輝いた山口百恵・ピンク・レディー・松田聖子。その傍らで、自分の言葉と曲で勝負するニューミュージックとシティ・ポップが静かに地殻変動を起こしていた。歌謡曲が最後の黄金期を迎えた70-80年代を、光と影の両面から中立にたどる第6話。
2026年6月13日
前話で私たちは、エレキを鳴らすグループサウンズと、ギター一本で社会を問うフォーク、そして自作自演という新しい姿勢の芽生えを見た。歌は若者の反抗と自己表現の言葉になり、「歌は誰かに作ってもらうもの」という常識そのものが揺さぶられていった。1970年代から80年代にかけて、その揺らぎは二つの大きな流れとなって、歌謡曲の世界を豊かに彩っていく。ひとつは、テレビの光のなかで輝いた華やかなアイドルたちの歌。もうひとつは、自分の言葉と曲で勝負するニューミュージックとシティ・ポップの台頭である。この二つは、ときに対立するように語られながら、実は同じ時代の表と裏として、戦後歌謡の最も豊かな季節を作り上げていった。
- 1973
山口百恵がデビュー。同年は荒井由実のアルバムデビューの年でもあり、自作自演を軸とするニューミュージックの起点のひとつとされる。
- 1976
ピンク・レディーがデビューし、振り付けつきの楽曲で社会現象的な人気を集めたと伝えられる。
- 1978
TBS系『ザ・ベストテン』が放送開始。レコード売上や有線放送などをもとにしたランキング番組として、テレビと歌の蜜月を象徴する。
- 1980
松田聖子がデビューし、80年代アイドルの中心的存在に。同年、山口百恵が人気絶頂のさなかに引退した。
テレビが輝かせたアイドルたち
1970年代、歌の主役のひとつとして、テレビが生み出すアイドルが大きく躍り出た。1973年にデビューした山口百恵は、その代表的な存在である。彼女は1970年代に最も多くのレコードを売り上げた歌手のひとりとされ、引退までのシングルは累計で一千万枚を超えたと伝えられる。陰影のある歌の世界を、わずか十代で表現しきった姿は、多くの人々の記憶に刻まれた。
華やかさという点では、1976年にデビューしたピンク・レディーが時代を象徴する。振り付けつきの楽曲は子どもから大人までを巻き込み、社会現象とも呼ばれる人気を集めたと伝えられる。そして1980年、山口百恵が人気絶頂のなかで引退したのと入れ替わるように、松田聖子が登場する。彼女は明るい個性と確かな歌唱で80年代アイドルの中心となり、次々とヒットを重ねていった。
こうしたアイドルたちの歌を全国に届けたのが、テレビの歌番組だった。1978年に始まった『ザ・ベストテン』は、レコードの売上や有線放送などをもとにヒット曲をランキング形式で紹介し、お茶の間の話題をさらった。歌番組とアイドル、そしてレコード会社が手を取り合い、歌が一週間ごとに順位を競う――テレビと歌の蜜月が、この時代のひとつの風景だった。
ニューミュージック ― 自分の言葉で歌う流れ
華やかなアイドルの傍らで、まったく別の方向から地殻変動が起きていた。フォークやロックから育った、自作自演の音楽の流れである。1970年代になると、こうした演奏やアレンジに凝った楽曲は「ニューミュージック」と呼ばれるようになっていった。前話で見た「自分たちの言葉で歌う」という衝動が、より洗練された形で実を結んだものといえる。
その象徴のひとりが、1973年にアルバムでデビューした荒井由実(のちの松任谷由実)である。彼女の音楽は、フォークの素朴さとも、従来の歌謡曲の様式とも違う、都会的で個人的な情景を描き出した。1976年には、ニューミュージックのアルバム売上が歌謡曲を上回ったとも伝えられ、自作自演の音楽が商業的にも無視できない存在になっていったことがうかがえる。
ニューミュージックの担い手たちは、作詞・作曲から歌唱までを一人で手がけることが多く、テレビの歌番組に頻繁に出ないことも珍しくなかった。それは、テレビを舞台とするアイドル歌謡とは対照的な姿勢だった。けれど、両者は敵対していたというより、聴き手の好みの幅を押し広げ、歌謡曲全体の表現を豊かにしていったと見るのが公平だろう。華やかなテレビの歌と、内省的なアルバムの歌。その両方が並び立てたことこそ、この時代の豊かさだった。
シティ・ポップ ― 都会の夜が生んだ音
ニューミュージックの中でも、とりわけ洗練され、都会的に磨き上げられた音楽は、のちに「シティ・ポップ」と区別して呼ばれるようになる。大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、大貫妙子といった作り手たちが、欧米のソウルやファンク、ロックを消化しながら、日本語で都会の情景や恋愛を描いていった。明確な始まりや定義があるわけではなく、後年になって振り返るなかで輪郭が与えられていったジャンルだという点には、注意が必要である。
興味深いのは、この音楽がはるか後の時代に、思いがけない形でよみがえったことである。竹内まりやが1984年に発表した『プラスティック・ラブ』は、当時は代表曲というより異色の作品と見なされていたとも伝えられるが、2010年代以降、インターネット上の動画を通じて海外のリスナーに広く知られ、再生回数が大きく伸びたと報じられた。日本の都会の夜を描いた音が、数十年を経て国境を越えて愛される――70-80年代に蒔かれた種が、後の世界進出の伏線になっていたともいえる。
黄金期の先にあったもの
1970年代から80年代の歌謡界は、戦後歌謡の積み重ねがひとつの頂点に達した季節だった。テレビが輝かせたアイドルの歌、自分の言葉で勝負するニューミュージック、都会の夜を描いたシティ・ポップ。性格の異なるこれらの流れが同じ時代に並び立ち、聴き手はその豊かな選択肢の中から、好きな歌を選ぶことができた。多様性そのものが、この時代の最大の財産だったといえる。
それは、戦後の焼け跡から始まった歌の歩みが、経済の成長と歩調を合わせて到達した成熟でもあった。豊かになった暮らしと、家庭に行き渡ったテレビと、成長したレコード産業。それらが歌を支え、歌もまた人々の暮らしに彩りを添えていった。
しかし、成熟は同時に、次の変化の予兆でもある。80年代の終わりにかけて、レコードはCDという新しい器に置き換わり、原宿の路上には自分たちの音を鳴らすバンドが集まりはじめる。やがて、これほど多彩だった歌たちは、まとめて「J-POP」という新しい名前のもとに語られるようになっていくのだ。歌謡曲という言葉が静かに後景へ退き、新しい呼び名と新しいメディアが時代を塗り替える――その転換の瞬間へと、物語は進んでいく。
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