歌わされた歌 ― 国家が音楽を動員した時代
レコードに乗って大衆のものになった歌は、戦争とともに自由を奪われていく。軍歌の大流行、ジャズを「敵性音楽」とみなした統制、音楽家を束ねた団体、そして戦地への慰問。歌が国家に動員された時代を、光と影の両面から中立にたどる。
2026年6月13日
前回まで、私たちはレコードとラジオが歌を「みんなのもの」に変えていく時代を見てきた。流行歌は街角に流れ、人々は新しい歌をくちずさみ、暮らしの中に音楽が溶け込んでいった。けれど、その自由な広がりは長くは続きなかった。1937年に始まる日中戦争、そして太平洋戦争へと向かう中で、歌は次第に国家の手に握られていく。何を歌い、何を歌わないか——その選択が、個人ではなく国の方針によって左右される時代が訪れたのだ。この回では、軍歌の大流行、敵性音楽とされたジャズの排除、音楽家を束ねた団体、戦地への慰問という四つの出来事を軸に、歌が動員された時代を、その光と影の両方から見ていく。
- 1937
日中戦争の開戦前後に『露営の歌』が発売され、半年で60万枚を売り上げる異例のヒットになったと伝えられる。同年、公募をもとに『愛国行進曲』が制定された。
- 1940
10月末、全国のダンスホールが内務省の命令で閉鎖されたとされ、洋楽への風当たりが強まっていく。
- 1941
11月、内閣情報局と文部省の監督のもとで日本音楽文化協会が設立されたとされ、音楽家の活動が一元的に束ねられていく。
- 1943
いわゆる敵性音楽として、ジャズのレコードなど約千種が演奏に適さないものとして発表されたと伝えられる。
軍歌が、国民の歌になった
1937年、日中戦争が広がっていく中で、戦争を主題とする歌が次々に生まれる。よく知られるのが、同年に発売されたとされる『露営の歌』である。出征した兵士の心情を歌ったこの曲は、当時としては異例の、半年で60万枚を売り上げたと伝えられ、時代を代表する歌のひとつになった。同じ年には、新聞社が歌詞を公募し、北原白秋や島崎藤村らが補作にあたったとされる『愛国行進曲』が制定されている。作曲は『軍艦行進曲』を手がけた元海軍軍楽隊長の瀬戸口藤吉だったと伝えられる。
こうした歌は、しばしば「軍歌」とひとくくりにされるが、その内実はさまざまだった。勇ましい行進曲もあれば、故郷を思い、戦友を悼む叙情的な歌もあった。だからこそ、人々は心を動かされ、すすんで口ずさんだ面もある。歌が国民の感情に寄り添うほど、それは戦意を支える力にもなる——ここに、戦時の歌が抱えた両義性がある。
重要なのは、これらの歌が必ずしも上から押しつけられただけのものではなかった、という点である。新聞社やレコード会社、ラジオが競って戦時の歌を世に送り出し、人々もまたそれを買い、歌った。国家の意図と、大衆の心情と、産業の思惑が分かちがたく絡み合っていた——そう見るのが、この時代を公平にたどる視点だといえる。
敵の音楽、と名指された音
戦争が長引くにつれ、矛先は「敵国の音楽」にも向かった。明治以来、日本は西洋音楽を熱心に取り入れ、昭和の初めにはジャズが都市の若者を魅了していた。けれど米英との対立が深まると、その洋楽が「敵性音楽」と名指されていく。
風向きの変化は、開戦より前から始まっていたと伝えられる。1940年の10月末には、全国のダンスホールが内務省の命令で閉鎖されたとされ、ジャズが流れる場そのものが奪われていった。太平洋戦争が始まると、ジャズは軽佻浮薄なもの、退廃をもたらすものとして強く批判されるようになる。1943年には、ジャズのレコードなど約千種が演奏に適さないものとして発表されたと伝えられ、自発的な演奏停止やレコードの供出が求められていった。
もっとも、こうした排除は完全に徹底されたわけではなかった、とも指摘される。敵性語として英語の使用が避けられ、外来の言葉が言い換えられた一方で、現場の運用には幅があり、人々は陰でこっそり洋楽を楽しんでもいた、という証言も残る。禁じられたものほど、人の心の中ではかえって生き延びる。文化を上から消し去ることの難しさが、ここにも表れている。
音楽家を束ねた団体と、戦地への慰問
歌や演奏を統制するには、それを担う音楽家たちを束ねる仕組みが必要だった。1941年11月、内閣情報局と文部省の監督のもとで日本音楽文化協会が設立されたと伝えられる。これは大政翼賛会などを後ろ盾とする団体で、演奏に日本人の作品を加えることを求めたり、士気高揚や情操のための演奏会を開いたり、工場へ音楽の一団を派遣したりといった活動を担ったとされる。
注目すべきは、この協会に加わらなければ、楽譜を得たり、演奏に必要な紙の配給を受けたりすることが難しかった、と伝えられる点である。つまり、音楽家にとって協会への参加は、活動を続けるための事実上の条件になっていった。直接の弾圧というより、制度の網の目によって自由が狭められていく——統制の多くは、こうした静かな形をとった。
一方で、戦地や工場、銃後の人々のもとへ音楽を届ける「慰問」も、この時代に大きな役割を果たした。歌手や楽団が前線をまわり、傷ついた兵士や働く人々を歌で励ましたのだ。慰問は、戦争協力という側面を持つと同時に、極限の状況で人々の心を支える音楽の力をも示していた。同じ一曲が、誰かを戦いへ送り出す歌にも、誰かをほんの一時なぐさめる歌にもなる。歌の意味は、それが鳴らされる場所によって変わっていった。
自由を奪われた歌が、残したもの
戦時下の音楽統制は、歌の自由を大きく狭めた。何を歌うかが国の方針に左右され、敵国の音楽は名指しで退けられ、音楽家は制度の網に組み込まれていった。それは、レコードとラジオが切り開いた「みんなの歌」の時代から見れば、明らかな後退だった。
けれど、この時代が残したものを、ただ暗い記憶として片づけることもできない。戦時の歌の多くは、人々の本物の感情に支えられていた。故郷を思い、別れを惜しみ、生き延びることを願う心——その心そのものは、戦争が終わっても消えなかった。むしろ、抑えつけられていたぶんだけ、解き放たれたときの音楽への渇望は大きかったといえる。統制は文化を一時的に押し込めることはできても、人が歌いたいという欲求そのものを消すことはできなかったのだ。
戦争が音楽から奪ったものと、それでも残ったもの。この対比を抱えたまま、歌は次の時代へと向かう。やがて訪れる敗戦と焼け跡。すべてが失われたように見えた廃墟の街で、しかし人々はふたたび歌を求める。そして、その渇いた心に応えるように、これまでとはまるで違う、明るく弾けるようなリズムが鳴りはじめるのだ。
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