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レコードが歌いだす ― 流行歌が生まれた日

黒い円盤に針を落とすと、見知らぬ歌手の声が部屋に響く。大正から昭和初期、SP盤とラジオが日本に広がり、歌は一部の人のものから大衆のものへと変わった。「カチューシャの唄」から「東京行進曲」へ、流行歌が生まれた時代をたどる第2話。

2026年6月13日

それまで、歌は誰かが目の前で歌うものだった。祭りの輪のなか、芝居の舞台、寄席の高座。歌い手がいなければ、歌はその場限りで消えてしまう――それが当たり前の世界だった。ところが大正の世になると、不思議な機械が家庭に入り込んできる。木の箱に大きな朝顔型のラッパが付いた蓄音機。黒い円盤に針を落とせば、会ったこともない歌手の声が、何度でも、寸分たがわず部屋に響くのだ。歌が「もの」になり、買えるようになり、繰り返し聴けるようになった――この変化こそが、流行歌という新しい文化を生み出していった。

  1. 1903

    円盤型のSPレコードが国内で発売され、扱いやすさからやがて主流になっていく。

  2. 1914

    芸術座『復活』の劇中歌「カチューシャの唄」が大流行し、流行歌の第一号とも語られる。

  3. 1925

    日本でラジオの本放送が始まり、音楽が電波で各家庭へ届く時代が幕を開ける。

  4. 1927

    欧米資本と結んだ大手レコード会社が相次いで誕生し、電気吹込の技術が導入される。

  5. 1929

    映画主題歌「東京行進曲」が発売され、二十数万枚を売り上げる大ヒットとなる。

黒い円盤が、声を持ち帰った

円盤型のレコード、いわゆるSP盤が国内で売り出されたのは、1903年ごろのことだったとされる。それ以前の蝋管型に比べ、円盤は収納しやすく、原盤からの複製も容易だった。同じ音を大量に刷れる――この性質が、音楽を商品として流通させる土台になっていく。やがて両面に音を刻んだSP盤が広まり、レコードは少しずつ庶民の手の届くものへと近づいていった。

歌がレコードに乗って広がる力を、はっきりと世に示した出来事として語られるのが、1914年の「カチューシャの唄」である。これは、島村抱月が率いた劇団・芸術座が上演した舞台『復活』の劇中歌だった。作曲は中山晋平、歌ったのは主演女優の松井須磨子。舞台の評判とともにこの歌は全国を席巻し、吹き込まれたレコードはおよそ二万枚を売り上げたと伝えられる。当時のレコードは決して安い品ではなく、この数字は驚くべきものだった。「カチューシャかわいや」という一節は流行語にまでなり、芝居を観ていない人々の口にものぼったという。

メディアを通じて全国に広まった歌――その意味で、「カチューシャの唄」はしばしば日本の流行歌の第一号として位置づけられる。もちろん、何をもって最初とするかには見方の幅があり、これ一つに起源を求めるのは慎重であるべきだろう。それでも、舞台とレコードという複数の回路を通じて一つの歌が国じゅうに鳴り響いた現象は、確かにこの時代の新しさを象徴していた。

ラジオと大手会社が、歌を加速させた

歌が大衆のものになる流れを、二つの力がさらに後押しする。一つは、1925年に本放送が始まったラジオである。それまで歌を聴くには、舞台へ足を運ぶか、レコードを買うしかなかった。ところがラジオは、電波に乗せて音楽を一斉に各家庭へ届ける。同じ時刻に、遠く離れた人々が同じ旋律を耳にする――この同時性は、流行というものの速度を一気に引き上げた。

もう一つの力が、レコード産業そのものの近代化である。昭和の初め、1927年ごろになると、欧米の資本や技術と結んだ大手のレコード会社が相次いで生まれていく。明治期に創業した日本蓄音器商会は英国の資本と提携して傘下に入り、のちに日本コロムビアと名を改めたとされる。同じころ、日本ビクター蓄音器株式会社も設立された。これらの会社は、欧米から「電気吹込」と呼ばれる新しい録音技術を取り入れ、音質を大きく向上させたと伝えられる。

歌い手のあり方も変わっていく。舞台の女優や芸者ではなく、レコードに歌を吹き込むことを本業とする「レコード歌手」が、職業として立ち上がってきた。会社が歌手を抱え、作詞家と作曲家に曲を発注し、宣伝とともに世に送り出す――現代まで続く音楽産業の骨格が、このころおぼろげに姿を見せ始めたのだ。

「東京行進曲」と、都市の歌

その新しい時代を象徴する一曲が、1929年に発売された「東京行進曲」だった。作詞は西条八十、作曲は中山晋平、歌ったのは佐藤千夜子。これは菊池寛の小説を原作とする同名映画の主題歌で、はっきり映画とタイアップして作られた成功例として、日本の映画主題歌の第一号とも呼ばれる。映画の公開に先がけて発売されたレコードは、二十数万枚を売り上げる空前のヒットになったと伝えられる。

歌詞には、当時の東京の風俗が鮮やかに描き込まれていた。銀座の柳、ジャズに踊る娘、地下鉄や映画館――近代化のただなかにある大都市の華やぎと、そこを行き交うモボ・モガたちの姿が、軽やかな旋律に乗せられている。聴く人は、歌を通じて都市の最先端の空気に触れ、見たことのない暮らしへの憧れをふくらませた。歌はもはや、ただ感情をうたうものではなく、時代の流行そのものを映し出し、また作り出す存在になっていたのだ。

こうして大正から昭和の初めにかけて、歌は劇場や教室を離れ、家庭の蓄音機やラジオから流れる、暮らしのなかの音になった。流行歌は、人々の喜びや恋やあこがれを乗せ、都市の風景を歌い、時代の気分を共有する器となっていく。それは、明治の唱歌が「教えられる音楽」だった時代から見れば、はるかに自由で、はるかに親しみやすい世界だった。けれど、その自由な響きが満ちていく一方で、社会の空気はゆっくりと張りつめていく。次の時代、人々が思い思いに歌うその声に、国家という大きな影が静かに忍び寄ろうとしていた。

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