クロニカ クロニカ
← ニッポンの歌 ― 音楽が映した日本の100年 の目次へ

若者は反乱する ― エレキとフォークが鳴らした自由

焼け跡の歌謡が大人のものだったとすれば、1960年代後半の音は若者のものだった。エレキを鳴らすグループサウンズ、ギター一本で社会を問うフォーク、そして自作自演のニューミュージックの芽。歌が反抗と自己表現の言葉になっていく季節を、史実ベースで描く。

2026年6月13日

前話で私たちは、焼け跡から立ちのぼったブギのリズムと、戦後復興とともに花開いた歌謡曲を見た。笠置シヅ子の弾むようなビート、美空ひばりの伸びやかな声――それらは、ようやく明るく歌えるようになった大人たちの歌だった。

だが1960年代の後半、その風景に新しい音が割り込んでくる。歌う主役が、世代ごと入れ替わろうとしていた。戦後に生まれ、テレビとともに育ち、欧米のロックやフォークをラジオで浴びて大きくなった若者たち。彼らは、与えられた歌を聴くだけでは満足しなくなっていた。自分たちで楽器を持ち、自分たちの言葉で歌う――そんな衝動が、いくつもの形を取って噴き出していく。

この時代の歌は、しばしば反抗の色を帯びていた。大人への反抗、社会への問いかけ、そして「歌は誰かに作ってもらうもの」という常識そのものへの反抗。若者たちは、さまざまな意味で反乱していた。

エレキを鳴らせ ― グループサウンズの熱狂

最初の波は、電気の音とともにやってきた。

1960年代半ば、イギリスのビートルズやアメリカのバンドが世界を席巻し、日本にもエレキギターを抱えたバンドの流行が押し寄せる。やがて、こうした若者バンドによる和製ポップスは「グループ・サウンズ」、略してGSと呼ばれるようになった。

その熱狂を象徴したのが、ザ・タイガースである。1967年2月、彼らは「僕のマリー」でデビューし、同年の「シーサイド・バウンド」のヒットやテレビ出演で人気を加速させた。長髪に華やかな衣装、甘いマスクのボーカルにファンは熱狂し、コンサート会場は悲鳴と涙に包まれたと伝えられる。同じ1967年には、ジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」がその年のレコード大賞に輝き、GSが歌謡界の本流に躍り出たことを印象づけた。

  1. 1967

    ザ・タイガースが「僕のマリー」でデビュー。ブルー・コメッツ「ブルー・シャトウ」がレコード大賞を受賞

  2. 1967〜1968

    グループサウンズのブームがピークを迎え、多くのバンドが次々とデビュー

  3. 1967年末

    ザ・フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」が発売され、翌年にかけて記録的なヒット

  4. 1968

    岡林信康が「山谷ブルース」でレコードデビュー。関西フォークが社会へ問いを投げかける

  5. 1972

    吉田拓郎「結婚しようよ」がヒットし、フォークがメジャーへ。ニューミュージックへの橋がかかる

1967年から68年にかけて、GSのブームはピークを迎える。数多くのバンドがデビューし、テレビの歌番組や雑誌のグラビアを賑わせた。だが、熱狂が大きければ大きいほど、それを冷ややかに見る目もあった。長髪や派手な衣装は不良の象徴と見なされ、GSのコンサートを「教育上よくない」として生徒の参加を禁じる学校もあったと伝えられている。光のまばゆさと、それを警戒する大人たちの影――この時代の若者文化は、最初からその両面を抱えていた。

ギター一本の問いかけ ― フォークと反戦歌

電気の熱狂とは対照的に、もう一つの波は、アコースティックギターの素朴な響きから生まれた。フォークソングである。

その口火を切ったのが、京都の学生バンド、ザ・フォーク・クルセダーズだった。彼らが1967年末に世に出した「帰って来たヨッパライ」は、テープの回転を速めた奇妙な高い声と、ユーモラスな歌詞が話題を呼び、翌1968年にかけて記録的な売上を達成したと伝えられる。冗談のような一曲が、若者の手づくりの音楽が全国に届きうることを証明したのである。

やがてフォークは、笑いだけでなく、社会への問いをまとっていく。とりわけ関西を中心に生まれた「関西フォーク」と呼ばれる流れは、反戦や社会への異議申し立てを歌に込めた。その代表格とされるのが、後に「フォークの神様」とも呼ばれた岡林信康である。1968年9月、彼は日雇い労働者の街を歌った「山谷ブルース」でデビューし、続く作品でも社会の片隅にある現実を見据えた。当時はベトナム戦争への反対運動が世界的に高まり、日本でも学生運動が激しさを増していた時代である。ギター一本で人々の前に立ち、自分の言葉で世の中を問う――フォークは、そうした若者たちの心の代弁者になっていった。

ただし、その歌のいくつかは、表現の内容を理由に放送で扱われにくくなったとも伝えられている。歌が社会を映し、社会に切り込もうとするとき、そこには必ず軋轢が生まれる。前話までに見た戦時下の「歌わされた歌」とは逆向きに、今度は「歌わせまいとする力」と、それでも歌おうとする若者たちのせめぎ合いがあった。

「自分で作って自分で歌う」 ― ニューミュージックの芽

GSとフォーク、二つの波が残した最大の遺産は、おそらく一つの考え方だった。歌は、自分で作って、自分で歌っていい――その自由である。

その流れを大きく前へ進めたのが、吉田拓郎だった。1972年1月に発売された「結婚しようよ」は爆発的にヒットし、それまでどこか地下的なものと見られていたフォークを、堂々たるメジャーの音楽へと押し上げたとされる。長髪の青年が、肩肘張らない日常のことばで「一緒に暮らそう」と歌う。その親密な手ざわりは、後の世代の作り手たちに大きな影響を与えた。

この前後から、職業作家が書いた歌を歌手が歌うという従来の分業を越え、シンガーソングライター自身が詞も曲も手がける音楽が広がっていく。やがてこうした潮流は「ニューミュージック」と呼ばれるようになり、フォークと歌謡曲、そして洋楽の感性が溶け合った、新しい大衆音楽の地平を切り開いていった。それは次話で見るアイドル全盛期と並走し、ときに交わりながら、1970年代以降の日本の音楽の土台を形づくっていく。

それでも、この季節が日本の歌に刻んだものは大きい。歌は、上の世代から与えられるものではなく、自分たちの手でつかみ取るものになった。エレキの轟音も、ギターのささやきも、どちらも「自分の声で世界に向き合う」という同じ衝動から生まれていた。反乱する若者たちは、歌の主導権を自らの手に引き寄せたのである。

そして時代は移っていく。手づくりの反抗が広く受け入れられる一方で、テレビという巨大なメディアは、別の輝きを放つスターを次々と生み出そうとしていた。次話では、ブラウン管の光のなかできらめいたアイドルたちと、それと並び立ったニューミュージックの成熟――歌謡曲が黄金期を迎えた、まばゆい時代を見つめることにしよう。

この記事は役に立ちましたか?

この物語が面白かったら——

X LINE

参考ソース・元動画