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黒船が運んだ音 ― 西洋音楽がやってきた

幕末、黒船とともに上陸したのは軍隊の足音だけではなく、見慣れぬ楽器が奏でる西洋の音でした。薩摩の若者がラッパを学び、伊沢修二が学校に唱歌を持ち込んだ明治。和と洋が出会い、日本の近代音楽が産声をあげるまでの物語をたどる第1話。

2026年6月13日

開国の合図は、大砲の音だけではなかった。幕末、相次いで日本の港に姿を見せた外国の艦隊は、上陸のたびに軍楽隊を従えていたと伝えられる。隊列の先頭で、見たこともない金属の管が高らかに鳴り、太鼓が規則正しく拍を刻む。それまで雅楽や三味線、長唄や民謡といった旋律のなかで生きてきた人々の耳に、西洋の音階は奇妙で、力強く、そして妙に新しく響いたことだろう。日本の近代音楽の物語は、この異国の響きが港町に流れ込んだ瞬間から、静かに始まっていく。

  1. 1869

    薩摩藩が約30名の若者を横浜へ送り、英国軍楽隊長フェントンのもとで西洋音楽を学ばせる。のちに薩摩バンドと呼ばれた。

  2. 1870

    フェントンが作曲した最初の「君が代」が、薩摩バンドによって明治天皇の前で演奏されたと伝えられる。

  3. 1879

    伊沢修二の主唱により、文部省が音楽教育を研究する音楽取調掛を設置する。

  4. 1880

    伊沢が師事した米国人メーソンが招かれ、学校音楽の整備が本格化したとされる。

  5. 1881

    日本初の五線譜による音楽教科書とされる『小学唱歌集』初編が刊行される。

ラッパを覚えた薩摩の若者たち

西洋の音を、ただ聴くだけでなく自分たちの手で奏でようとした最初の集団のひとつが、薩摩藩から送り出された若者たちだった。1869年、薩摩藩は鼓笛隊を中心とする約30名の若者を「軍楽伝習生」として横浜へ派遣したと伝えられる。彼らを教えたのは、ジョン・ウィリアム・フェントン。英国公使館を護衛する歩兵大隊の軍楽隊長を務めていた人物だった。

慣れない五線譜と、息で鳴らす金管楽器。日々の稽古は決してやさしいものではなかったはずであるが、彼らは短い期間で吹奏楽の基礎を身につけていったとされる。のちに「薩摩バンド」と呼ばれたこの一団は、日本人による西洋式軍楽隊の出発点として記憶されている。維新の動乱のただなかで、刀ではなくラッパを手にした若者がいた――そう思うと、時代の転換の早さに改めて驚かされる。

そしてこの軍楽隊の物語は、思いがけず国の象徴ともつながっていく。フェントンは、日本にも儀礼の場で奏でる国歌のような楽曲が必要ではないかと進言したと伝えられ、みずから作曲を買って出た。薩摩琵琶の調べに由来するともいわれる古歌「君が代」の詞が選ばれ、フェントンがそれに曲を付けたとされる。1870年、その最初の「君が代」が薩摩バンドによって明治天皇の前で披露されたと伝わる。ただし、この旋律は日本人の耳になじみにくいという声もあり、のちに作り直されていく。国歌の成り立ちには諸説があり、一度で定まったわけではなかったのだ。

伊沢修二と、教室に流れた最初のメロディ

軍楽隊が式典や軍隊の音だったとすれば、もう一つの大きな流れは、子どもたちの教室から始まった。その中心にいたのが、教育者の伊沢修二である。明治の初め、伊沢は米国へ留学し、音楽教育家として知られたルーサー・ホワイティング・メーソンに学んだとされる。歌うことが情操を育て、国民をつくる力になる――そう確信した彼は、帰国後、日本の学校にも音楽の授業を根づかせようと動き出した。

1879年、伊沢の主唱によって、文部省は音楽教育を研究するための機関「音楽取調掛」を設ける。翌年ごろには師であるメーソンが日本へ招かれ、活動は本格化していったと伝えられる。彼らに課せられた問いは、とても難しいものだった。西洋の音楽をそのまま教えるのか、それとも日本古来の音楽を土台にするのか。答えは「和洋の折衷」という方向に落ち着いていく。西洋の音階や記譜法を取り入れつつ、歌詞や情緒には日本のものを生かす――その模索の結晶が、唱歌だった。

1881年には、日本初の五線譜による音楽教科書とされる『小学唱歌集』の初編が刊行された。1884年ごろまでに第三編まで編まれたこの唱歌集には、全体で九十曲あまりが収められたとされる。興味深いのは、その旋律の出どころである。研究によれば、収録曲の過半数は、ドイツや米国の学校教材から採られた外国のメロディだったと指摘されている。つまり、子どもたちが教室で覚えた「日本の唱歌」の多くは、もとをたどれば異国の調べに、日本語の詞を載せたものだったのだ。

借り物の旋律から、自分たちの歌へ

外国の旋律に日本語を当てる――それは、単なる間に合わせの工夫ではなかった。慣れ親しんだ言葉が西洋の音階に乗ったとき、人々はそこに、それまで知らなかった種類の感情を見いだしていったとされる。やがて唱歌は、外国曲の翻案にとどまらず、日本人の手による創作へと広がっていく。四季の移ろいや故郷の風景、学びの喜びをうたう唱歌は、世代を超えて口ずさまれ、いまも私たちの記憶の奥に残るものが少なくない。

この時代に蒔かれた種は、教室の外にも芽を出していく。軍楽隊で育った奏者たちは、やがて演奏会や行事の場で腕をふるい、西洋音楽を学ぶ人の輪を広げた。教育の現場で五線譜を学んだ子どもたちは、長じて新しい音楽の担い手や、熱心な聴き手へと育っていく。明治という時代は、まだ西洋音楽が「上から」もたらされる学びであり、人々が自由に楽しむ娯楽には至っていなかった。けれど、その土壌は確かに耕されつつあったのだ。

こうして明治の日本は、黒船が運んできた異国の響きを、軍隊の音として、そして教室の歌として、少しずつ自分たちのものにしていった。ラッパを覚えた薩摩の若者も、五線譜を書いた小学生も、まだ自分たちが何を始めているのかを知らなかったかもしれない。けれど、音楽が一部の人の特権ではなく、誰もが触れられるものへと開かれていく道筋は、確かにこの時代に引かれたのだ。やがてその音は、教室や式典という枠を飛び越えていく。次の時代、黒く光る円盤が、歌を人々の暮らしのただなかへと運び込もうとしていた。

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