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高度成長と食の革命

焼け跡から立ち上がった日本は、驚くべき速さで豊かになっていく。1958年のインスタントラーメン、台所に入った冷蔵庫、1970年に開いたファミリーレストランとファストフードの時代。高度成長は、日本人の食卓を質も量も一変させる革命をもたらした。

2026年6月13日

飢えと配給の時代を抜けた日本は、一九五〇年代の後半から、世界が驚くほどの速さで経済を成長させていった。いわゆる高度経済成長である。所得が増え、暮らしが豊かになるにつれて、食卓もまた大きく姿を変えていく。

この変化は、量の回復にとどまりなかった。新しい食品が生まれ、台所に新しい道具が入り、外で食べるという行為が家族の楽しみになる。食の質そのものが、技術と産業の力で塗り替えられていったのだ。この第8話では、戦後復興のさきに訪れた、いわば「食の革命」の時代をたどる。その象徴の一つが、お湯を注ぐだけで食べられる、まったく新しい麺だった。

お湯を注いで二分、魔法のラーメン

一九五八年(昭和三十三年)八月、一つの食品が世に出た。安藤百福が率いる会社が発売した、インスタントラーメンの第一号「チキンラーメン」である。

その作り方は画期的だった。味をつけて蒸した麺を油で揚げて乾燥させることで、長く保存でき、お湯を注げば二分ほどで食べられる。この製法は「瞬間油熱乾燥法」と呼ばれ、後のインスタント麺の基礎になったと伝えられる。手間のかかるラーメンが、家庭で手軽に再現できる――。当時の人々はこれを「魔法のラーメン」と呼び、爆発的に売れたと記録されている。発売元は同じ年の暮れに、社名を日清食品へと改めた。

この発明が生まれた背景には、戦後の食糧事情も影を落としていたといわれる。アメリカから大量の小麦がもたらされ、パンや麺といった小麦食をどう日本人の暮らしに根づかせるかが課題になっていた時代だった。米とは別の主食を、おいしく手軽に届ける――。インスタントラーメンは、そうした時代の要請とも重なり合いながら広まっていったと見ることができる。一つの食品の成功が、単なる商才だけでなく、その時代の食をめぐる大きな流れと結びついていた点は、見逃せないところである。

台所に入った白い箱

食の革命は、食品だけでなく、それを支える道具のうえでも進んだ。なかでも食卓を大きく変えたのが、電気冷蔵庫である。

高度成長期、白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫の三つは「三種の神器」と呼ばれ、豊かな暮らしの象徴として家庭に広まっていった。普及の歩みは急だった。ある記録では、電気冷蔵庫の普及率は一九五七年(昭和三十二年)にはわずか数パーセントにすぎなかったものが、一九六五年(昭和四十年)には七割近くにまで達したとされる。

冷蔵庫が台所に入ったことの意味は、想像以上に大きいものだった。食材を買いだめして保存できるようになり、毎日の買い物の負担が軽くなる。生鮮食品や乳製品を安全に蓄えられるようになり、献立の幅が広がった。冷たい飲み物やアイスクリームが日常になったのも、この白い箱のおかげである。台所の一つの道具が、買い物の習慣から献立、家族の食の楽しみまでを静かに作り変えていった。

  1. 1958

    インスタントラーメン第一号「チキンラーメン」が発売される。

  2. 1962

    一人あたりの米の年間消費量がピークを迎える。

  3. 1965

    電気冷蔵庫の普及率が急上昇し、台所の必需品になっていく。

  4. 1970

    すかいらーく一号店が開業。同年の大阪万博で外食産業がわく。

  5. 1971

    ハンバーガーチェーンの日本一号店が銀座に開く。

外で食べることが、家族の楽しみになった

豊かになった日本では、外で食事をすることが、特別な日のごちそうから、家族の日常の楽しみへと変わっていった。その転機が、一九七〇年(昭和四十五年)に集中して訪れる。

この年、東京の郊外に、家族そろって気軽に入れる新しい形式の店が開いた。後にファミリーレストランと呼ばれることになる、すかいらーくの一号店である。広い駐車場を備え、洋食を中心とした手ごろなメニューを、明るい店内で家族みんなが楽しめる。マイカーの普及とも結びついたこの業態は、郊外の暮らしに合った外食の形として広まっていった。

同じ一九七〇年には、大阪で万国博覧会が開かれ、世界の料理が一堂に紹介された。フライドチキンのチェーンが実験的に出店して人気を集め、翌一九七一年には、ハンバーガーチェーンの日本一号店が東京・銀座に開く。立ったまま手軽に食べるファストフードという文化が、こうして日本に根づきはじめた。外食産業がいっせいに花開いたこの時期は、後に「外食元年」とも呼ばれている。

万博という場で、多くの日本人が初めて口にした料理は少なくなかったと伝えられる。会場に並んだ世界各国の味は、人々に外の食文化への好奇心をかき立てた。そして、そこで芽生えた関心を日常へと引き継いだのが、各地に増えていったチェーン店だった。標準化された味とサービスを、全国どこでも同じ品質で提供する。こうした仕組みは、外食を一部の人の贅沢から、誰もが楽しめる日常へと押し広げていく。均一であることが、かえって安心と手軽さを生んだのだ。豊かさが、食の楽しみを社会の隅々まで届けはじめた時代だった。

食卓から、米が静かに減っていく

これらの変化が積み重なるなかで、日本人の食生活そのものが、構造から変わっていった。その最もわかりやすい指標が、米の消費量である。

統計によれば、一人あたりの米の年間消費量は一九六二年(昭和三十七年)におよそ百十八キログラムでピークを迎え、その後は長く減少を続けたとされる。半世紀ほどのちには、その半分以下にまで落ち込んだ。主食の王座にあった米が、食卓の中心から少しずつ後退していったのだ。

理由は一つではない。パン食の定着、肉や乳製品、油を使った料理の増加、外食やインスタント食品の普及。前話で見た戦後のパンとミルクが開いた扉を通って、洋風の食材と料理が日常へなだれ込み、献立は驚くほど多様になった。和食と洋食、さらに中華やその他の国の料理が、一つの家庭の食卓に当たり前に並ぶ。こうした混ざり合いこそが、この時代に完成した日本の食卓の特徴だといえる。

この多様化を、豊かさの達成と見るか、伝統からの離反と見るか。評価は今も分かれており、どちらか一方に決めつけることはできない。確かなのは、高度成長期を経て、日本人の食卓が量も質も大きく一変したという事実である。

飢えを知った世代が築いた豊かさのなかで、日本の食は世界でも類を見ないほど多彩なものになった。そしてこの豊かで独特な食文化は、やがて国内にとどまらなくなる。健康によい食事として、洗練された料理として、海の向こうの人々が日本の食に関心を寄せはじめるのだ。そして世界が、日本の食に目を向けはじめる。

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