軍隊と学校が広めた味 ― 国家が標準化した食卓
明治の海で、若い水兵たちが次々と脚気に倒れていた。その謎を追った軍医の挑戦から、海軍カレーが生まれたと伝えられる。軍隊の食堂と、貧しい子のための一杯のおにぎり。近代国家が栄養という尺度で国民の食を整えていった、食卓の標準化の物語を史実ベースで描く。
2026年6月13日
前話で私たちは、カレーライスやトンカツ、コロッケといった「洋食」が、西洋料理を日本人の口に合わせて作り変えるなかから生まれていくさまを見た。だがそれらは、まだ都市の食堂や一部の家庭の楽しみにとどまっていた。
ひとつの味が、本当に国じゅうへ広がるには、それを運ぶ大きな仕組みが要る。明治の日本にとって、その担い手となったのが、国家そのものだった。
兵を養う軍隊と、子を育てる学校。この二つの巨大な装置を通して、食はやがて「栄養」という近代的な尺度で測られ、地域や身分を越えて標準化されていく。本話では、軍隊と学校という二つの入り口から、近代国家が国民の食卓を整えていった物語を見つめよう。
海で倒れる若者たち ― 脚気という影
物語は、明るい食堂からではなく、暗い船倉から始まる。
明治のはじめ、日本の海軍を悩ませた病があった。脚気である。手足がしびれ、力が抜け、重くなれば心臓が弱って命を落とす。当時、その原因はまだ解き明かされておらず、伝染病ではないかとも、土地の病ではないかとも言われていた。
事態の深刻さを伝える出来事が、明治十六年に起きたと記録されている。遠洋航海に出た練習船で、乗員の多くが脚気にかかり、少なくない数の死者を出したと伝えられる。海の上で、戦う前に若者たちが倒れていく。これは国家にとって、見過ごせない危機だった。
この謎に挑んだのが、海軍の軍医、高木兼寛である。彼は兵の食事に原因があるのではないかと考えた。当時の海軍では、白米を中心とした食事が支給されていた。米は故郷の味であり、ご馳走でもあったが、おかずが乏しく、栄養はかたよっていたとされる。
高木は遠洋航海に出る艦を用いて、食事の内容を変えて結果を比べたと伝えられる。肉や麦を取り入れ、洋風に改めた食事をとった側で脚気が大きく減った、という結果が示されたという。原因の細部には諸説が残るものの、食の改善が病を抑えたという経験は、海軍の兵食を変える大きな後押しとなった。
麦飯とカレーの皿 ― 軍隊が運んだ栄養
こうして海軍は、明治十年代の半ばごろから、兵の食事を洋風に改めていったとされる。白米だけに頼るのをやめ、たんぱく質を多く含む麦をまぜた麦飯や、肉を使った料理を取り入れていく。
ここで、前話に登場したカレーが再び姿を見せる。肉と野菜を一皿で煮込み、飯にかけて食べるカレーは、栄養をまとめて取れて、大鍋で大量に作れて、味も濃く食が進む。多くの兵を養う軍隊の食事として、都合のよい料理だったとされる。海軍の兵食からカレーが広まったという説は、よく知られている。
もっとも、カレーが脚気予防のために考案されたと単純に言い切ることはできない。麦飯や肉食を含む食事全体の改善があり、そのなかにカレーがあった、と理解するのが穏当だろう。料理の起源にまつわる物語は、しばしば後から整えられて語り継がれる。
- 1883年
遠洋航海中の海軍練習船で多くの乗員が脚気にかかり、危機が広く知られる
- 1880年代
高木兼寛らの取り組みを背景に、海軍の兵食が麦飯や肉を含む洋風へと改められていく
- 1889年
山形県鶴岡の私立忠愛小学校で、貧しい子のための昼食提供が始まったと伝えられる
- 明治後期
栄養という近代的な概念が、軍隊・学校を通じて社会に広まっていく
ともあれ、軍隊で食を覚えた若者たちは、やがて任を終えて故郷へ帰る。彼らが持ち帰った味の記憶――カレーの匂い、麦飯の食感、肉のうまみ――は、村々の食卓に静かに種をまいたと考えられる。徴兵という制度が、図らずも全国規模の「食の学校」として働いた面があった、と指摘されることもある。国家が兵を養うために整えた食が、人を通して地方へにじんでいったのである。
一杯のおにぎりから ― 学校給食の芽生え
もう一つの入り口は、子どもたちの教室にあった。
日本の学校給食の始まりは、明治二十二年、山形県鶴岡の私立忠愛小学校だと伝えられている。これは国の制度として始まったものではない。寺院の住職たちが宗派を越えて寄付を出し合い、貧しくて弁当を持ってこられない子どもたちのために、昼食を出したのが起こりだとされる。
その献立は、おにぎり、塩鮭、菜の漬物といった、ごく簡素なものだったと記録されている。豪華さとは無縁の、まさに「食べさせる」ことそのものを目的とした食事である。空腹では学べない。まず腹を満たすことが、学びへの第一歩だった。
この小さな試みは、やがて各地の慈善的な取り組みへと広がっていく。栄養が足りない子に食を与えることは、教育の問題であると同時に、国民の体をつくる国家の関心事にもなっていった。子どもの食を社会全体で支えるという発想が、ここに芽を出したのである。
学校給食が国の制度として大きく整えられ、全国の子どもたちのもとへ届くようになるのは、戦争という大きな断絶を経た後のことになる。その物語は、後の話であらためて見ることになるだろう。
標準化される食卓
軍隊と学校。性格のまるで異なる二つの場が、共通して国民の食に関わっていったところに、この時代の特徴がある。
そこに通っていたのは、「栄養」という新しい考え方だった。食べ物を、おいしさや季節や身分だけでなく、体をつくり、力を生む材料として測る。何をどれだけ食べれば人は健やかに育つのか――そうした問いが、軍を強くし、子を育て、国を富ませるという近代国家の関心と固く結びついていった。
この標準化には、光と影の両面がある。地域や家の貧富によって偏りがちだった食が、底上げされていった面は確かにある。一方で、食が国家の力のために管理され、やがて戦時には統制と動員の対象にもなっていく、その入り口でもあった。栄養という尺度は、人を救いもすれば、束ねもする。
それでも、この時代に蒔かれた種は深い。軍の食堂で覚えた味、教室で分け合った一杯。地域を越え、身分を越えて、同じものを食べる経験が広がっていく。日本人の食卓が「みんなの食卓」へと近づいていく、その最初の大きな一歩が、ここにあった。
そして、国家が上から食を整えていく一方で、街には別の力が生まれつつあった。都市の盛り場では、家の外で、自分の楽しみのために食べる――そんな新しい文化が花開こうとしていた。次話は、カフェーとデパート食堂がにぎわう、もう一つの食卓の物語へと向かおう。
この記事は役に立ちましたか?
フィードバックありがとうございます!