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黒船と肉食解禁 ― 文明開化の食卓

幕末、浦賀沖に現れた黒船が日本の扉をこじ開けた。開国とともに西洋の食が流れ込み、明治5年には天皇が牛肉を口にしたと伝えられる。千年以上つづいた肉食の禁忌が解かれ、湯気を立てる牛鍋が文明開化の象徴となるまでをたどる第3話。

2026年6月13日

一汁三菜の様式が整い、寿司や天ぷら、蕎麦が江戸の町にあふれていたころ、日本の食卓は外の世界とほとんど切り離されたまま、独自の完成度を磨いていた。米と魚、出汁とうま味。その静かな調和は、何百年もかけて育まれた美意識の結晶だった。けれど十九世紀の半ば、その閉じた世界に、太平洋のかなたから黒い船がやってくる。蒸気を吐き、大砲を備えた四隻の艦隊。それは単なる外交の使者ではなく、日本の食卓そのものを根底から揺さぶる、長い変化の始まりでもあった。やがて千年以上つづいた一つの禁忌が、湯気の立つ鍋とともに解かれていく。

  1. 1853

    ペリー率いる四隻の艦隊が浦賀沖に来航し、米大統領の国書を提出して開国を求めたとされる。

  2. 1854

    幕府が日米和親条約(神奈川条約)を結び、長くつづいた鎖国に終止符が打たれていく。

  3. 1858

    日米修好通商条約が結ばれ、貿易が本格的に認められる。横浜などの開港地に西洋人と西洋の食が流れ込む。

  4. 1871

    仮名垣魯文の戯作『安愚楽鍋』が刊行され始める。牛鍋屋を舞台に、文明開化と肉食を礼賛したと伝えられる。

  5. 1872

    明治天皇が牛肉を口にしたと伝えられ、肉食をめぐる空気が大きく変わる転機になったとされる。

黒船が開いた、食の扉

一八五三年、ペリーの率いる艦隊が浦賀沖に姿を現したとき、人々を驚かせたのは大砲や蒸気船だけではなかった。翌年に再び来航したアメリカ側を、幕府は横浜村でもてなすが、このとき供されたのは、まぎれもない日本の饗応料理だった。一方でアメリカ側も、艦上で日本の役人を西洋式の食事でもてなしたと伝えられる。異なる食文化が、はじめて公式の場で向かい合った瞬間だった。

一八五八年の修好通商条約によって貿易が本格的に認められると、横浜や神戸、長崎といった開港地には、外国人の居留地が築かれていく。彼らはパンを焼き、牛や豚を求め、ワインやビールを飲んだ。日本人にとって見たことも嗅いだこともない匂いが、港町の空気にまじり始める。最初、多くの日本人はその食を奇異なものとして遠ざけた。けれど居留地の周辺では、外国人向けに牛肉を商う者や、西洋料理をまねる料理人が少しずつ現れていく。

ここで思い出しておきたいのは、それまでの日本が「肉を食べない国」として長い時間を過ごしてきたという事実である。仏教の影響や、農耕に牛馬を欠かせなかった事情、そして殺生を忌む感覚が重なり合い、おおやけには四つ足の獣を食べることがはばかられてきた。むろん、薬と称して食べる「薬食い」や、地域によっては猪や鹿を口にする習慣もあり、肉食がまったく途絶えていたわけではない。それでも、牛肉を堂々と食卓に並べることは、長らく文化の表側にはなかったのだ。黒船は、その分厚い壁に最初のひびを入れた。

天皇が牛肉を口にした日

明治という新しい時代が始まると、政府は西洋に追いつくことを国家の目標に掲げる。制度も、軍隊も、暦も、つぎつぎと西洋の型に合わせて改められていった。そうした近代化の流れのなかで、食もまた「文明の度合い」を測るものさしとして語られるようになる。西洋人が体格に恵まれているのは肉を食べるからだ――そんな考え方が、知識人のあいだで広まっていったと言われる。

その象徴的な出来事として語り継がれているのが、明治五年、つまり一八七二年に、明治天皇が牛肉を召し上がったと伝えられる一件である。長く宮中において獣の肉は避けられてきたとされるが、その頂点に立つ存在みずからが牛肉を口にしたという知らせは、人々の意識を大きく動かした。これによって肉食への抵抗感が一気に薄れたと語られることが多い出来事である。ただし、この逸話の細部や、それがどれほど直接に民間へ影響したのかについては諸説あり、当時の記録を慎重に読み解く必要があるとも指摘されている。

牛鍋が立てた、文明の湯気

肉食をめぐる空気が変わるなかで、東京の町に急速に広がっていったのが「牛鍋」だった。薄く切った牛肉を、味噌や醤油で煮ながら囲む鍋料理である。これは西洋料理そのものではなく、肉という新しい素材を、鍋という慣れ親しんだ食べ方に落とし込んだ、いわば折衷の味だった。見知らぬ食材も、出汁や醤油の世界に引き入れてしまえば、日本人の口になじむ。この発想は、のちの「洋食」へとつながる大切な萌芽でもあった。

牛鍋の流行をいきいきと伝えるのが、戯作者・仮名垣魯文が明治四年から刊行し始めた『安愚楽鍋』である。牛鍋屋に集う客たちの会話を通して、文明開化の世相を笑いまじりに描いたこの作品には、肉鍋を食べなければ時代に遅れる、といった気分が活写されている。牛鍋を囲むことが、ただ腹を満たす以上の意味――自分が新しい時代の側にいるという自負――を帯びていたことが、よく伝わってくる。一説には、明治の十年ごろには東京の牛鍋屋が数百軒にのぼったとも言われ、湯気の立つ鍋は文明開化を象徴する光景となっていった。

もっとも、その熱気のいっぽうで、肉の値は庶民にとって安いものではなく、牛鍋を日常的に楽しめたのは、ある程度ゆとりのある人々が中心だったとも考えられる。新しい食は、まず都市から、そして手の届く層から広がっていく。食卓の変化が社会のすみずみへ行き渡るには、さらに長い時間と、別の力が必要だった。

まねることから、作り変えることへ

黒船から始まった一連の出来事は、日本人に「肉を食べる」という新しい選択肢をもたらした。けれど、より大きな変化はその先にある。人々は西洋の食をただ受け入れただけではなく、それを自分たちの味覚に合うように、少しずつ作り変えていったのだ。牛肉を鍋に仕立てた牛鍋は、その最初の一歩だった。

開港地のレストランで供された本格的な西洋料理は、当初、ごく限られた人々のためのものだった。ナイフとフォークの使い方も、バターやソースの濃厚さも、多くの日本人にとっては未知の体験である。けれど料理人たちは、その異国の味を観察し、手元の食材と日本人の好みに引き寄せていく。ごはんに合うこと、箸で食べられること、そして手の届く値段であること。こうした条件を満たすかたちへと西洋料理が組み替えられていったとき、日本の食卓には、まだ名前のない新しいジャンルが生まれようとしていた。

千年以上つづいた肉食の禁忌が解かれ、牛鍋の湯気が町をおおったこの時代は、日本の食が外へ向かって大きく扉を開いた瞬間だった。そして、その扉の向こうから流れ込んだ西洋の味は、まもなく日本人の手によって、まったく独自の料理へと姿を変えていく。

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