一汁三菜の完成 ― 和食という様式
武家の礼法から生まれた本膳料理、茶の湯が育てた懐石。そして百万都市・江戸の路上で、寿司や天ぷら、蕎麦が屋台から生まれていく。様式の美と庶民の活気が出会ったところに、私たちが知る和食のかたちが整っていく道のりをたどる第2話。
2026年6月13日
前回、私たちは米と出汁、そして肉を断つ食のかたちが、古代から中世にかけて静かに育っていった道のりをたどった。けれど、それはまだ素材と心の段階にとどまっていた。やがて、これらが「様式」として整えられていく時代がやってくる。武家が礼法のなかで膳のかたちを定め、茶人が一服のために料理を磨き、そして百万の人が暮らす都市・江戸の路上で、庶民が手軽に楽しむ新しい食が次々と生まれていく。和食と呼ばれるものの輪郭は、この時代にくっきりと描かれていったのだ。
- 室町時代
武家の礼法とともに、儀礼の席で供される本膳料理の形式が整えられていったとされる。
- 安土桃山時代
茶の湯の広まりのなかで、千利休らによって、一服の茶に向けた質素な懐石が育てられていく。
- 文政年間(1818〜1831頃)
江戸の華屋与兵衛らが、その場で握る江戸前の握り寿司を広めたと伝えられる。
- 2013年
「和食 日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録される。
膳の上の秩序 ― 本膳料理
中世も後半に入り、武家が世の中心に立つようになると、食事は単に腹を満たす行為ではなく、礼を尽くし、格を示すための「儀礼」としての意味を帯びていった。そこから整えられていったのが、本膳料理と呼ばれる形式である。
本膳料理は、平安の頃にその萌芽があり、室町時代の武家の礼法とともに発達し、江戸時代に入ってさらに形が整えられていったとされる。その特徴は、料理を脚つきの膳に整然と並べ、出す順序や置く位置まで細かく定めた点にあった。主となる膳には、飯と汁、そして香の物、なます、煮物、焼物といったおかずが、決められたかたちで配される。ここに、後に和食の基本形として知られる「一汁三菜」——一つの汁と三つのおかず——という献立の考え方が見てとれる。
本膳料理は、味わいだけでなく、見た目の整いや作法そのものを重んじる料理だった。どの膳をどの順で出し、どう箸をつけるか。そうした所作の一つひとつに意味が込められ、食事は一種の儀式として執り行われたのだ。豪華で格式の高いこの形式は、やがて簡略化されながらも、日本の食卓に「型」という感覚を深く刻み込んでいった。
一服の茶のために ― 懐石の心
本膳料理が格式と豪華さを追い求めていったのに対し、まったく逆の方向から食を見つめ直す流れも生まれていた。茶の湯、すなわち茶道の世界である。
茶を喫する前に供される簡素な料理は、安土桃山時代、千利休らが茶の道を深めていくなかで育てられていったとされる。これがのちに「懐石」と呼ばれるようになった。懐石という言葉は、禅の修行僧が空腹と寒さをしのぐために温めた石を懐に抱いたという故事に由来すると伝えられ、もともとは、空腹をしのぐ程度のささやかな食事という意味合いを帯びていた。
懐石が日本の食に残したものは大きなものだった。器の取り合わせ、季節の表現、無駄を削いだ盛り付け、そして客への心づくし——これらは、料理を一つの総合的な美として味わう感覚を育てた。本膳料理が「秩序の美」を示したとすれば、懐石は「簡素のなかの豊かさ」を示したといえる。この二つの流れが、和食の精神的な背骨を形づくっていった。
路上から生まれた味 ― 江戸の食
格式ある料理が上の世界で磨かれていく一方で、まったく別の活気が、江戸の路上に渦巻いていた。太平の世が続いた江戸時代、百万を超える人が暮らしたともいわれるこの巨大都市には、地方から働きに出てきた職人や奉公人が大勢った。彼らの多くは独り身で、自分で煮炊きをする暇も場所も乏しい。そこに、外で手軽に食べられる「外食」の文化が大きく花開いたのだ。
その担い手が、街角に立ち並んだ屋台だった。安く、早く、うまい——それを身上とする屋台は、いまでいうファストフードの役割を果たした。とりわけ数を増やしたのが、蕎麦、天ぷら、そして寿司である。蕎麦は手早くすすれる一杯として愛され、天ぷらは串に刺した揚げたてを立ったまま頬張る庶民の楽しみだった。
なかでも、後に世界へ広がる握り寿司が、いまのかたちに近づいたのも、この時代だとされる。それまでの寿司は、魚を飯とともに長く漬け込む保存食が中心でしたが、文政年間の頃、江戸の華屋与兵衛らが、酢飯の上に新鮮なネタをのせてその場で握る、手早い寿司を広めたと伝えられる。注文するとすぐ握られ、立ったまま口に運べるこの寿司は、せっかちな江戸の人々の気質によく合った。
こうして江戸時代の終わりには、格式の様式と路上の活気、四季を映す器と素材への敏感さが折り重なり、私たちがいま「和食」と思い描くものの輪郭が、ほぼ出そろっていた。後の世、2013年に「和食 日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録されたとき、評価されたのは、四季や自然を尊ぶ心、一汁三菜を基本とする献立、年中行事との結びつきといった特徴だった。その多くは、まさにこの時代までに育まれたものだったのだ。
けれど、この成熟した食卓は、永遠に静かなままではいられなかった。やがて太平の世が終わりに近づき、海の向こうから黒船が姿を現する。西洋の風は、千年をかけて築かれたこの食のかたちを、根底から揺さぶることになるのだ。
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