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作家たちの時代 ― ニューシネマの革命

1960年、パリ。批評家あがりの若者がカメラを街へ持ち出し、映画の文法をひっくり返した。ヌーヴェルヴァーグの熱は海を越え、アメリカン・ニューシネマへと飛び火する。監督を作品の作者と見なす作家主義のもと、世界が表現の革命に沸いた1960-70年代を史実ベースで描く。

2026年6月13日

前話で私たちは、テレビの普及とパラマウント判決によってハリウッドのスタジオ・システムが黄昏を迎え、巨大スクリーンの大作主義で反撃するさまを見た。安定した帝国の鎖がゆるみ、その隙間から新しい風が吹き込もうとしていた。

その風は、まずアメリカではなくフランスから吹いた。映画を撮ったことのない、批評家あがりの若者たちが、軽いカメラを手に街へ飛び出していく。彼らは過去の名作を礼賛しながら、同時に旧来の映画作りの常識を片端から壊そうとした。

監督とは、作品の真の作者である――この一見当たり前にも思える考えが、1960-70年代の世界の映画を根底から揺さぶることになる。本話は、批評が映画を変えた稀有な時代の物語である。

カメラ=万年筆 ― ヌーヴェルヴァーグの誕生

物語の発火点は、一冊の映画批評誌にある。『カイエ・デュ・シネマ』。映画批評家アンドレ・バザンらが主宰したこの雑誌に、映画に取り憑かれた若者たちが集まっていた。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル――のちに「カイエ派」と呼ばれる面々である。

彼らはまず、書くことから始めた。古いフランス映画の硬直した「良質の伝統」を辛辣に批判し、一方でハリウッドの娯楽作のなかに、監督の個性が刻まれた傑作を見出していく。その思想の源流のひとつとして、しばしば1948年のアレクサンドル・アストリュックの論文「カメラ=万年筆、新しき前衛の誕生」が挙げられる。作家がペンで文章を書くように、監督はカメラで映画を書くべきだ――という考えである。

そして彼らは、ペンをカメラに持ち替えた。批評で唱えたことを、自ら実作で証明しようとしたのだ。

1959年、トリュフォーの『大人は判ってくれない』やシャブロルの『いとこ同士』が世に出る。翌1960年に公開されたゴダールの『勝手にしやがれ』は、無造作なジャンプ・カットや街頭の即興撮影で、映画の文法そのものをひっくり返してみせたとされる。これらの作品が放った熱は、フランス一国にとどまらなかった。

ただし、運動は一枚岩ではなかった。同志だったゴダールとトリュフォーも、のちに袂を分かつ。ゴダールが作家主義をより原理的・実験的に追求し続けたのに対し、トリュフォーはやがて大衆に届く物語性へと舵を切っていったと評される。革命の内側にも、複数の道があったのである。

監督が主役になるとき ― 作家主義という思想

ヌーヴェルヴァーグが世界に投げかけた最大の遺産は、一本の理論だったのかもしれない。「作家主義(オートゥール理論)」である。

それまで、映画は多くの人手が関わる集団作業であり、誰か一人の作品とは言いにくいものだった。スタジオが企画し、スターが看板になり、脚本家が筋を書く。監督はその工程の一担当者にすぎない、という見方も根強かった。

カイエ派はこれに異を唱えた。優れた映画には、画面の隅々まで貫かれた一貫した個性――作者の刻印がある。その作者とは、ほかならぬ監督である、と。たとえスタジオの注文で撮られた娯楽作であっても、そこに監督独自の主題やスタイルが流れているなら、それは立派な「作家」の作品なのだ。

  1. 1948

    アストリュックが論文「カメラ=万年筆」を発表。監督を作品の作者とみなす思想の源流となる

  2. 1959

    トリュフォー『大人は判ってくれない』、シャブロル『いとこ同士』が公開され、ヌーヴェルヴァーグが本格化

  3. 1960

    ゴダール『勝手にしやがれ』が公開。ジャンプ・カットなど大胆な手法で映画の文法を更新する

  4. 1967

    アメリカで『俺たちに明日はない』が公開され、ニューシネマの時代が幕を開ける

  5. 1969

    『イージー・ライダー』がヒットし、若者世代の感性が映画の主流に躍り出る

この思想は、海を越えてアメリカの若い映画人や批評家に大きな影響を与えた。1960年代後半、世界各地で起きていた「新しい波」の映画は、新興の配給会社を通じてアメリカへも紹介され、映画学校で学ぶ若者たちにむさぼるように吸収されていったとされる。イングマール・ベルイマン、フェデリコ・フェリーニ、そしてトリュフォーや、日本の黒澤明――国境を越えた作家たちの作品が、次の世代の教科書になった。

監督を作品の中心に据えるこの見方は、やがてアメリカ映画そのものを作り変える原動力となっていく。

ニューシネマ ― ハリウッドが若返った数年間

舞台はアメリカへ移る。前話で見たとおり、スタジオ・システムは弱体化し、観客は離れ、旧来の大作主義も行き詰まりを見せていた。古い経営陣は、若者が何を観たいのかをつかみあぐねていた。その空白に、新しい才能が流れ込む。

転機とされるのが、1967年の『俺たちに明日はない』と『卒業』、そして1969年の『イージー・ライダー』である。これらの作品は、当初は誰も大ヒットを予想していなかったにもかかわらず、若い観客の熱狂的な支持を集めた。暴力や性をためらわずに描き、権威に懐疑的で、社会の矛盾に正面から向き合う――そうした姿勢が、ベトナム戦争や公民権運動に揺れる時代の空気と共鳴したのである。

この一連のうねりは「アメリカン・ニューシネマ」、あるいは「ニュー・ハリウッド」「ハリウッド・ルネサンス」などと呼ばれる。およそ1960年代末から70年代を通じて続いた、アメリカ映画の若返りの時代である。

この時代、監督は単なる職人ではなく、自らの主題と世界観を刻む「作家」として遇された。スタジオは若い才能に、かつてないほど大きな裁量を委ねた。暗い結末も、曖昧な主人公も、実験的な構成も許された。観客の側もまた、わかりやすい勧善懲悪ではなく、割り切れない現実を映す物語を求めていた。商業の論理よりも、作り手の個性が前に出た、稀有な数年間である。

革命が遺したもの

ヌーヴェルヴァーグからアメリカン・ニューシネマへ――1960年代から70年代にかけての映画は、ひとつの確信に貫かれていた。映画は商品である前に、誰かの表現でありうる、という確信だ。批評の言葉から始まった運動が、世界中のスクリーンの上で、目に見えるかたちに結実したのである。

もちろん、この時代を理想化しすぎることもできない。作家の自由が常に傑作を生んだわけではなく、難解さや独りよがりに陥った作品もあったと評される。巨大な制作費を作家の名のもとに投じ、興行で大きくつまずいた例も後年語られる。光が強ければ、影もまた濃い。

それでも、この革命が映画に遺したものは大きい。監督を作品の作者と見なす感性、現実の手触りを恐れない撮り方、割り切れない物語を許容する成熟――それらは時代が移っても、世界の映画の底流に生き続けている。批評家あがりの若者たちがパリの街角でカメラを回したあの日から、映画は確かに一段、大人になったのである。

だが、作家たちが切り開いた自由の時代は、長くは続かなかった。やがて一頭の鮫と、はるか彼方の銀河の物語が、映画を再びかつてないほど巨大な娯楽産業へと押し戻していく。スクリーンは、次の大きなうねりを迎えようとしていた。

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