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拡大する共同体

繁栄する6カ国の共同体に、加わりたい国が現れる。だがドゴールは英国の加盟を二度阻んだ。1973年の第一次拡大、南欧の民主化と加盟、そして共通農業政策の光と影。共同体が大きくなる過程を、その理想と軋みの両面から中立にたどる。

2026年6月13日

前回まで、私たちは1957年のローマ条約によって生まれた欧州経済共同体(EEC)が、関税同盟という仕組みで国境を低くし、6カ国に繁栄をもたらしていく姿を見てきた。共同体は、明るい説得力を手に入れたのだ。すると、外からその輪に加わりたいと願う国が現れはじめる。けれど、扉はすんなりとは開きなかった。一人の大統領が、強い意志でそれを押しとどめたからである。この回では、加盟をめぐる駆け引き、第一次拡大、南欧の民主化と加盟、そして共同体を支えながら大きな火種ともなった共通農業政策を軸に、共同体が大きくなる過程を、その理想と軋みの両面から中立にたどる。

  1. 1963

    フランスのドゴール大統領が、英国のEEC加盟申請を拒否したとされる。1967年にも再び拒まれた。

  2. 1973

    英国・デンマーク・アイルランドが加盟し、共同体は9カ国に(第一次拡大)。

  3. 1981

    民主政へ復帰したギリシャが加盟(第二次拡大)。

  4. 1986

    スペインとポルトガルが同時に加盟し、共同体は12カ国に(第三次拡大)。

ドゴールの拒否 ― 開かれなかった扉

EECが発足したとき、海の向こうの大国イギリスは、その輪の外にった。当初のイギリスは大陸主導の統合に距離を置き、別の貿易の枠組みをつくる道を選んでいたのだ。しかし、6カ国が目に見えて豊かになっていくのを前に、イギリスは態度を変えていく。1960年代、イギリスはEECへの加盟を申請した。

ところが、その前に立ちはだかったのがフランスのシャルル・ド・ゴール大統領だった。1963年、彼は記者会見でイギリスの加盟に反対を表明したと伝えられる。理由として語られたのは、イギリスがアメリカに近すぎるという懸念だった。大陸を中心とする欧州の独自性を重んじたド・ゴールは、イギリスを「アメリカのトロイの木馬」になぞらえたとも伝えられる。1967年、イギリスは再び加盟を申請すが、これもまた拒まれた。一人の指導者の意志が、共同体の扉を二度にわたって閉ざしたのだ。

この拒否は、統合の歴史にある問いを刻んだ。共同体は、誰のために、どこまで開かれるべきなのか。ド・ゴールは国家主権を重んじ、共同体が国家を飲み込むことを警戒した人物としても知られる。実際、1965年には政策決定の方式をめぐって理事会の会合を欠席し続ける「空席政策」と呼ばれる対立を引き起こし、統合の歩みを一時こわばらせたとも言われる。統合の理想と、国家の主権という現実とのせめぎあいは、最初期からこの共同体に内在していたのだ。

第一次拡大 ― 9カ国への扉

転機は、ド・ゴールの退場とともに訪れた。1969年に彼が大統領を辞任すると、イギリスの加盟交渉は再び動きはじめる。1972年、エドワード・ヒース首相のもとでイギリスは加盟条約に署名し、1973年1月1日、デンマーク、アイルランドとともに正式に加盟した。原加盟の6カ国は、ここで9カ国へと広がる。これが第一次拡大と呼ばれる出来事である。

この拡大には、見落とされがちな影もあった。当初はイギリスらと同じく加盟を申請していたノルウェーが、1972年の国民投票で加盟反対を選んだのだ。報じられた数字では反対がおよそ53.5%、賛成が46.5%で、投票率は8割近くにのぼったとされる。漁業や農業をめぐる懸念、主権を手放すことへの抵抗——豊かな共同体に加わることが、必ずしもすべての国民にとって望ましい選択とは限らない。拡大の歴史には、加わらないという選択もまた、はっきりと刻まれているのだ。

それでも、第一次拡大が共同体に与えた意味は小さくない。とりわけイギリスという経済大国の参加は、共同体の重みを増した。同時にイギリスは、自国の負担額や共通政策のあり方をめぐって、加盟後ほどなく不満を募らせていく。大きくなることは、結束を強める半面、まとめにくさも連れてくる——拡大という営みのこの二面性は、このあとのEUの歴史を貫くテーマとなる。

南へ ― 民主化と加盟

1980年代、共同体は南へと扉を開く。その背景にあったのは、経済だけではない、もう一つの大きな物語だった。民主主義である。

ギリシャ、スペイン、ポルトガルの3カ国は、いずれも長く独裁や軍事政権のもとにあった。それぞれが1970年代に民主政へと移行すると、共同体への加盟を望むようになる。ギリシャは1975年に加盟の希望を表明し、1981年1月1日に加盟しました(第二次拡大)。スペインとポルトガルも民主化を経て1977年に加盟を望み、1986年1月1日に同時に加盟します(第三次拡大)。これによって共同体は12カ国体制となった。

この南欧の拡大は、共同体に新しい意味を加えた。加盟は、たんなる市場への参加ではなく、勝ち取ったばかりの民主主義を確かなものにするための「錨」と受け止められたのだ。共同体に加わることが、その国を民主的な価値の側につなぎとめる——のちにEUが加盟の条件として民主主義や人権を強く求めていく発想の、原型がここに見える。もっとも、まだ経済的に発展の途上にあった国々を迎えることは、豊かな先進国とのあいだに格差という難題を共同体に持ち込むことでもあった。光と影は、ここでも背中合わせだった。

共通農業政策 ― 共同体を支え、揺さぶった仕組み

拡大とともに、もう一つ見ておくべき大きな主題がある。共通農業政策(CAP)である。これは、6カ国の時代である1962年に動きはじめた、共同体でもっとも初期からの共通政策だった。

その目的は、農家の生活水準を守り、域内に食料を安定して供給することにあった。仕組みの中心は、市場の相場よりも高い価格を農産物に保証することである。戦後の食料難を経験した欧州にとって、農業を手厚く支え、自給を確かにすることは切実な願いだった。実際、CAPのもとで欧州の農業生産は大きく伸び、食料不足は遠い記憶になっていく。これはまぎれもない光の側面だった。

しかし、その手厚さは、やがて影を落とする。高い価格を保証されれば、農家は当然たくさん作る。その結果、需要を超える生産があふれ、売れ残りが積み上がっていった。当時の欧州では、過剰になった在庫を指して「バターの山」「ワインの湖」「穀物の山」といった言葉が語られたと伝えられる。共同体は余った農産物を高く買い支え、その費用は共同体予算の大きな部分を占めるまでにふくらんだ。負担をめぐる国どうしの綱引きは、イギリスの不満に象徴されるように、政治の火種にもなっていく。さらに、補助された安い農産物が域外へ輸出されることは、共同体の外の農業国との通商摩擦も招いたとされる。

こうして共同体は、9カ国、そして12カ国へと広がり、内側には拡大の活力と摩擦、そしてCAPに象徴される共通政策の光と影を抱え込んでいった。大きくなった共同体は、もはや単なる関税同盟の枠には収まりきらない。次に人々がめざしたのは、まだ数多く残っていた目に見えない壁を取り払い、市場を細部まで完全に一つにすることだった。そしてその試みは、やがて「欧州連合」という新しい名のもとに、政治統合への大きな一歩へとつながっていく。

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