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ローマ条約 — 共同市場への一歩

1957年、6カ国はローマで二つの条約に署名した。石炭と鉄から始まった統合は、市場そのものを一つにしようとする。EEC・関税同盟・ユーラトムの誕生と、共同市場という大きな賭けを、その理想と難しさの両面から中立にたどる。

2026年6月13日

前回まで、私たちは石炭と鉄という二つの素材を共同で管理することで、独仏が二度と戦争を起こせない仕組みをつくろうとした人々の歩みを見てきた。1952年に生まれた欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)は、限られた分野ながら、国家が主権の一部を共通の機関にゆだねるという前例のない実験だった。けれど、石炭と鉄だけでは経済のすべてはまわらない。やがて人々は、もっと大きな問いに踏み込んでいく。いっそ、市場そのものを一つにできないか——。この回では、1957年にローマで署名された二つの条約を軸に、共同市場という壮大な構想がどう形をとり、どんな理想と難しさを抱えていたのかを、中立にたどる。

  1. 1955

    イタリアのメッシーナで6カ国の外相が会談し、経済統合をさらに進める方向を確認したとされる(メッシーナ会議)。

  2. 1957

    ローマで欧州経済共同体(EEC)条約と欧州原子力共同体(ユーラトム)条約に6カ国が署名。

  3. 1958

    両条約が発効し、EECとユーラトムが正式に発足したとされる。

  4. 1968

    EEC域内の関税同盟が、当初の予定より早く完成したと伝えられる。

ローマへの道 ― ECSCの先に見えたもの

ECSCは成功した実験だった。けれど、その成功はかえって人々に物足りなさを感じさせたとも言われる。石炭と鉄という二つの分野だけを統合しても、貿易や産業の全体は依然として国境で分断されたままだったからである。統合を主導してきたジャン・モネらは、より広い分野へ歩みを進めるべきだと考えたとされる。

転機となったのが、1955年にイタリアのメッシーナで開かれた6カ国の外相会議だった。ここで各国は、経済統合をさらに前へ進める方向を確認したと伝えられる。議論の中心を担ったのは、ベルギーの政治家ポール=アンリ・スパークだった。彼の名を冠した報告書(スパーク報告)が、その後の交渉のたたき台になったとされ、共同市場と原子力分野の協力という二つの柱が描かれていく。

ただし、ここに至る道は平坦ではなかった。直前の1954年、より野心的だった欧州防衛共同体(EDC)の構想が、フランス議会の批准拒否によって挫折していたのだ。軍事という主権の核心に触れる統合は、当時の各国には重すいだ。その失敗を経て、人々は再び経済という、合意しやすい分野から統合を積み上げ直そうとした——そう見ることもできる。

二つの条約 ― EECとユーラトム

1957年3月、フランス・西ドイツ・イタリア・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの6カ国は、ローマで二つの条約に署名した。一つは欧州経済共同体(EEC)を設立する条約、もう一つは欧州原子力共同体(ユーラトム、EURATOM)を設立する条約である。この二つをあわせて「ローマ条約」と呼ぶことがある。翌1958年に両条約は発効し、新しい共同体が動きはじめた。

主役となったのはEECである。その条約は全部で約250の条文からなり、共同市場の形成、共同体全体の経済成長、生活水準の向上、加盟国どうしの関係の緊密化を目的として掲げた。経済を結びつけることで、政治的な和解をいっそう確かなものにする——機能的統合という、ECSC以来の発想がここでも貫かれている。

もう一つのユーラトムは、原子力エネルギーの平和利用を共同で進めるための枠組みだった。戦後の欧州はエネルギー不足に悩んでおり、当時まだ希望に満ちていた原子力を共同開発することには、大きな期待が寄せられたと伝えられる。もっとも、各国の利害やのちの政策の違いもあって、ユーラトムはEECほど大きな存在には育たなかった、と評されることが多い分野でもある。

関税同盟 ― 国境のない市場という発想

EECがめざした共同市場の土台にあったのが、関税同盟という仕組みである。これは二つの約束からなる。一つは、加盟国どうしのあいだで関税や数量制限を取り払うこと。もう一つは、域外の国々に対しては共通の関税(共通対外関税)を設けることである。内側の壁を壊し、外側の壁をそろえる——そうして6カ国を、あたかも一つの市場のように扱おうとしたのだ。

これは単なる貿易の技術ではなかった。商品が国境で止められずに行き交えば、企業はより広い市場を相手に商売ができ、競争と分業が進み、経済全体が活気づくと期待された。実際、関税同盟は当初の予定を前倒しして1968年に完成したと伝えられ、この時期の6カ国は高い経済成長を経験する。統合と繁栄が手をたずさえて進んだ、統合の歴史でも明るい局面だった。

加えてEEC条約は、商品だけでなく、人・サービス・資本の自由な移動という、より大きな理想も書き込んでいた。とはいえ、これらが本当に実現していくのはずっと後のことである。当時はまだ理念として掲げられた段階で、現実の市場には数多くの非関税の壁が残されていた。掲げた理想と、足元の現実とのあいだには、大きな隔たりがあったのだ。

走りはじめた共同体 ― 制度と火種

ローマ条約は、運営のための機関も整えた。政策を提案し共同体の利益を代表する委員会、加盟国の立場を持ち寄る理事会、各国の議員からなる議会的な集まり、そして条約の解釈をつかさどる裁判所——のちのEUへ受け継がれていく骨格が、この時期に少しずつ姿を見せはじめる。複数の共同体に分かれていた機関は、1967年にひとまとめにされ、運営の効率が図られていった。

走りはじめた共同体には、明るさと同時に火種もあった。たとえば、農業をどう扱うかは難問だった。各国はそれぞれ農家を抱え、食料の安定供給という切実な事情もあった。そこから共通の農業政策を組み立てる試みが始まるが、それがやがて、共同体の予算や国どうしの綱引きをめぐる大きな論点へと育っていく。この主題は、次回でくわしく見ることになる。

それでも、ローマ条約が欧州の歴史にひらいた地平の大きさは、改めて確かめておく価値がある。かつて戦場で向き合った国々が、関税という日々の経済のレベルで境界を低くし、ともに豊かになる道を選んだ——その事実そのものが、二度と戦争をしないという当初の願いの、一つの形だった。経済の結びつきが深まるほど、戦争の費用は割に合わなくなる。素朴であるが、強い論理がここにはあった。

こうして6カ国の共同体は、繁栄という説得力を手に入れていく。すると、外からその輪に加わりたいと願う国が現れはじめる。とりわけ、当初は距離を置いていた海の向こうの大国が、態度を変えていくのだ。けれど、その扉は、すんなりとは開きなかった。次回は、拡大をめぐる駆け引きと、新たな国々を迎え入れていく共同体の歩みをたどる。

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