安全と環境の代償
豊かさの象徴だった自動車は、やがて事故と公害という二つの影を問われ始めた。一人の弁護士の告発、空を覆う排ガス、そして「不可能」と言われた規制――。安全と環境をめぐる攻防が、技術そのものを押し上げていった時代を描く。
2026年6月13日
自動車は二十世紀の半ばまで、ほとんど無条件の善として語られてきた。移動の自由、産業の発展、豊かさの象徴――。前話までに見てきたように、車は人々の暮らしを大きく広げ、社会の形そのものを作り替えてきた。
ところが一九六〇年代に入ると、その輝きの裏側に、これまで正面から問われてこなかった二つの影が浮かび上がる。一つは「事故」、もう一つは「公害」だった。便利さと引き換えに、私たちは毎年おびただしい数の命を道路で失い、都市の空を汚し続けていたのではないか――。この問いが、自動車という産業に新しい責任を突きつけていく。そして興味深いことに、その厳しい問いこそが、技術を次の段階へと押し上げる原動力にもなっていった。
一冊の本が変えた、安全への意識
転機の一つは、一冊の本だった。一九六五年、アメリカの若い弁護士ラルフ・ネーダーが『どんなスピードでも危険だ(Unsafe at Any Speed)』を発表する。彼はこの本で、アメリカの自動車産業が安全装置への投資を渋り、欠陥を抱えたまま車を売り続けていると告発した。
当時、自動車事故はしばしば「運転者の不注意」の問題として片づけられていた。ネーダーはその常識に異を唱える。事故は避けられないとしても、いざ衝突したときに乗員を守る設計――すなわち車そのものの安全性――を、メーカーはもっと真剣に考えるべきだ、と主張したのだ。彼はとりわけ、ゼネラルモーターズ(GM)の小型車シボレー・コルヴェアの設計に問題があると指摘したと報じられている。
この告発をめぐっては、GMがネーダーの私生活を調べさせていたことが後に表面化し、かえって彼の主張に注目が集まったと伝えられている。世論の高まりを受けて、アメリカでは一九六〇年代後半に自動車の安全基準を定める法律が整備され、シートベルトの装備などが段階的に義務づけられていった。一人の弁護士の問いかけが、産業全体の前提を動かしたのだ。
シートベルトからエアバッグへ ― 守る技術の進化
安全をめぐる技術は、その後も静かに、しかし着実に進んでいく。
まずシートベルトが、肩と腰の二点を押さえる「三点式」へと改良された。これはスウェーデンのメーカーが考案し、特許を広く開放したことで世界に普及したとされる仕組みで、衝突時に乗員の体を効果的に支えることができた。
さらに、衝突の衝撃そのものを吸収する発想も生まれる。車体の前後をあえて潰れやすく設計し、中央の客室を堅固に保つ「クラッシャブル構造」という考え方である。ぶつかったときに車が壊れること、それ自体が乗員を守る――という逆転の発想だった。そして衝突の瞬間に膨らんで乗員を受け止めるエアバッグが、二十世紀の後半にかけて実用化され、やがて多くの車に標準装備されていく。アンチロック・ブレーキ(ABS)のように、運転操作そのものを支援する技術も加わっていった。
こうした装備の多くは、最初から市場が求めたというより、規制や社会の要請に押される形で広がっていったという見方もある。安全とは何か、それを誰が担保するのか――。事故という影が、車づくりの優先順位を静かに塗り替えていったのだ。
空を覆う排ガス ― もう一つの代償
事故と並んで、もう一つの深刻な影が立ち上がる。大気汚染、すなわち公害だった。
モータリゼーションが進み、都市に車があふれるにつれて、自動車の排気ガスが空気を汚し始める。とりわけアメリカ・カリフォルニア州のロサンゼルスでは、排ガスに含まれる成分が日光と反応して発生する「光化学スモッグ」が深刻化し、社会問題となった。車がもたらす自由の代償が、人々の呼吸する空気そのものに表れ始めたのだ。
ここで登場するのが、規制という新しい力だった。一九七〇年、アメリカで大気浄化法(クリーンエア法)の大幅な改正が成立する。提案者の上院議員の名にちなんで「マスキー法」とも呼ばれるこの法律は、自動車の排出ガスに含まれる有害成分を、数年のうちに従来の十分の一にまで削減することを求めるものだった。
- 1965
ラルフ・ネーダーが『どんなスピードでも危険だ』を発表し、車の安全設計を問う。
- 1966
アメリカで自動車の安全基準を定める連邦法が整備され、規制の時代が始まる。
- 1970
大気浄化法(マスキー法)が成立。排ガスの大幅削減という厳しい目標が課される。
- 1972
ホンダがCVCCエンジンを発表。低公害燃焼への道を示す。
- 1975
アメリカで排出ガス規制が本格適用され、各社が技術開発を競う。
この目標は、当時の技術では達成が難しいと考えられ、「不可能」とまで言われたと伝えられている。自動車メーカーの多くは、達成期限の延長を求めた。規制が、産業の現実を大きく超えていたのだ。
「不可能」が技術を生んだ
ところが、この厳しすぎるとされた目標が、結果として技術の飛躍を促すことになる。
日本のホンダは、一九七二年に「CVCC」と呼ばれる燃焼方式のエンジンを発表した。これは、燃料の薄い混合気をうまく燃やすことで有害成分を抑える仕組みで、同社はこのエンジンを搭載した車でマスキー法の基準に適合した最初の量産車と位置づけられている。排ガスを後から処理する装置に頼るのではなく、燃やし方そのものを工夫する――という発想だった。
並行して、排気の通り道に置いて有害成分を無害なものへ変える「触媒」の技術も進んだ。とりわけ、三種類の有害成分を同時に処理する「三元触媒」は、その後の排ガス対策の中心的な技術となっていく。エンジン側の工夫と、排気を浄化する装置。この両輪によって、かつて「不可能」と言われた水準が、徐々に現実のものとなっていったのだ。
信頼を試すもの ― リコールという仕組み
安全と環境への関心が高まるなかで、もう一つ重要な仕組みが社会に根づいていく。「リコール」――出荷後に欠陥が判明した製品を、メーカーが回収し無償で修理する制度である。
自動車は数万点の部品からなる複雑な工業製品であり、設計や製造の段階で問題が見つかることは、どのメーカーにとっても起こりうることだった。重要なのは、欠陥が判明したときにそれを隠さず、速やかに公表して対応できるかどうかである。リコールは、消費者の安全を守る最後の砦であると同時に、メーカーの誠実さと信頼を試す仕組みでもあった。
歴史を振り返れば、各国の自動車メーカーは大小さまざまなリコールを経験してきた。なかには対応の遅れや情報開示のあり方が問われ、社会的な議論を呼んだ事例もあったと報じられている。ただ、その評価は事案ごとに事情が異なり、一概に論じることは難しいものだ。確かなのは、リコールという制度が広く整備されたこと自体が、自動車という産業が「売って終わり」ではなく、走り続けるかぎり責任を負う存在へと変わったことを示している、という点だろう。
二十世紀の後半、自動車は事故と公害という二つの影に正面から向き合うことを迫られた。そしてその厳しい問いに応えるなかで、安全装置も、低公害技術も、大きく前進していく。代償を払いながら成熟していった巨大な産業は、やがて一国の中に収まりきらなくなり、国境を越えた再編の渦へと巻き込まれていくことになる。
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