イラン革命と第二次オイルショック — 1979
石油の富で輝いていたはずのイランで、王朝が一夜にして崩れた。亡命先から戻った一人の老師ホメイニ、止まる油田、再び跳ね上がる原油価格。世俗の近代国家が宗教国家へと姿を変え、米イラン関係は断絶した。第二次オイルショックの全貌。
2026年6月11日
1973年の石油危機で、中東の産油国はかつてないほどの富を手にしました。その筆頭の一つが、ペルシャの末裔を自負する大国・イランです。皇帝(シャー)モハンマド・レザー・パフラヴィーは、湧き出る石油マネーを軍備と近代化につぎ込み、自国を「中東の超大国」に押し上げようとしていました。
ところが、その輝かしいはずの王朝が、1979年、あっけなく崩れ落ちます。引き金を引いたのは戦車でも他国の軍隊でもなく、街頭にあふれた民衆と、遠い亡命先からテープで声を届けた一人の老いた宗教指導者でした。
上からの近代化と、たまった不満
パフラヴィー朝のシャーが進めたのは、「白色革命」と呼ばれる上からの近代化政策でした。土地改革、女性参政権、識字運動――欧米をモデルにした世俗的な改革です。テヘランには高層ビルが建ち、富裕層は欧米的な生活を謳歌しました。
しかし、その繁栄は社会の隅々まで行き渡りませんでした。急激な近代化はインフレと格差を生み、農村から都市に流れ込んだ人々は貧しいスラムにあふれます。さらにシャーは秘密警察「サヴァク」を使って反対派を厳しく弾圧し、批判を許しませんでした。
そうした不満の受け皿になったのが、シーア派の宗教指導者ルーホッラー・ホメイニでした。彼はシャー体制を「腐敗し、欧米にすり寄る背教の政権」と激しく批判し、1964年に国外へ追放されます。しかし亡命先のイラク、そしてフランス・パリ郊外から、彼の説教を録音したカセットテープがイラン国内に密かに流れ込み、人々の心に火をつけ続けました。
注目すべきは、革命を担ったのが宗教勢力だけではなかったことです。世俗的な左派、民族主義者、商人(バザール商人)、知識人――本来なら理念の異なる人々までが、「とにかくシャーを倒す」という一点で手を結びました。富がもたらしたゆがみへの怒りは、それほど広く、深かったのです。そして、その雑多な連合の頂点に押し上げられたのが、亡命中で誰よりも妥協せずシャーを批判し続けてきたホメイニでした。
王が去り、老師が帰った
1978年、ホメイニを誹謗する記事が新聞に載ったことをきっかけに、各地で抗議の暴動が燃え広がりました。学生、労働者、商人、聖職者――立場の違う人々が「王制打倒」の一点で結びつき、ストライキとデモが国を麻痺させていきます。石油産業の労働者までもがストに入り、国家の生命線である原油の生産が止まりました。
ついに1979年1月、シャーは「療養」を名目にイランを去ります。事実上の亡命でした。そして同年2月、14年に及ぶ亡命生活を終えたホメイニがパリから帰国します。テヘランの空港には数百万ともいわれる群衆が押し寄せ、老師を熱狂で迎えました。2月11日、革命勢力が実権を握り、王朝は完全に幕を閉じます。
- 1978
反シャーの抗議運動が全国に拡大。石油労働者のストで原油生産が停止に向かう。
- 1979/1
シャー(モハンマド・レザー・パフラヴィー)が事実上の亡命で出国。
- 1979/2
ホメイニがパリから帰国、2月11日に革命政権が成立。
- 1979/4
国民投票を経て「イラン・イスラム共和国」が樹立される。
- 1979/11
テヘランの米大使館占拠(人質事件)。米イラン関係が断絶へ。
同年、国民投票を経て国名は「イラン・イスラム共和国」となりました。世俗的な近代国家を目指していた国が、わずか1年あまりで、聖職者が最高権威を握る宗教国家へと生まれ変わったのです。これは20世紀の中東で、誰も予想しなかった地殻変動でした。
止まる油田、跳ね上がる価格
革命の混乱は、世界経済を直撃しました。イランは当時、世界有数の産油国です。革命前後のストライキと混乱で、その膨大な原油輸出が大きく落ち込みました。失われた量自体は世界全体の供給からみれば一部にすぎませんでしたが、市場を支配したのは「数字」ではなく「恐怖」でした。
「次はどこの国が混乱するのか」「もう石油は安く手に入らないのではないか」――1973年の悪夢を覚えていた消費国や企業は、われ先にと原油を買いだめしようとしました。この「パニック的な買い」と「将来不安」が需給をさらにひっ迫させ、原油価格は再び急騰します。これが第二次オイルショックです。
第一次に続く二度目の価格高騰は、ようやく立ち直りかけていた先進国の経済に重い打撃を与えました。物価高と景気停滞が同時に進む「スタグフレーション」に各国は苦しみ、エネルギーを中東一辺倒に頼ることへの危機感が、世界に深く刻まれます。これ以降、省エネ技術への投資や、中東以外の油田開発、原子力など代替エネルギーの模索が本格化していきました。
皮肉なことに、この二度の危機を経て、世界は少しずつ「脱・中東依存」へと体質を変え始めます。日本では燃費の良い小型車が国際競争力を持ち、北海やアラスカといった非中東の油田開発が加速しました。短期的には産油国に莫大な富をもたらした石油危機は、長期的には「いつまでも石油を高く売り続けられるとは限らない」という、産油国自身への警告でもあったのです。この伏線は、シリーズの終盤でもう一度立ち上がってきます。
引かれた断絶線
革命がもたらしたもう一つの決定的な変化は、アメリカとの関係の断絶でした。1979年11月、亡命したシャーの治療をアメリカが受け入れたことに反発した学生たちが、テヘランのアメリカ大使館を占拠し、館員らを人質に取ります。この占拠は1981年初めまで続きました。
それまで「中東における最も頼れる同盟国」だったイランは、一転して反米の急先鋒となります。長年かけて築かれた米イランの蜜月は終わり、両国の外交関係は途絶えました。アメリカが中東に描いていた安全保障の地図は、大きく書き換えを迫られます。
この断絶は、その後何十年にもわたって中東を縛り続ける枷となりました。アメリカにとってイランは「失われた要石」となり、代わりの足場をどこに求めるかという問いが、地域全体の力学を歪めていきます。経済制裁、相互不信、そして折にふれて高まる軍事的緊張――現在のニュースで「米イラン対立」という言葉を目にするとき、その根の最も深いところにあるのが、この1979年なのです。
革命イランの誕生は、近隣の産油国にも強い緊張を走らせました。とりわけ国境を接する隣国は、「革命の火が自国にも飛び火するのではないか」という恐怖と、「混乱に乗じて領土と覇権を奪う好機ではないか」という野心の、その両方に揺さぶられることになります。
油田の富をめぐる物語は、ここから一気に血なまぐさい段階へと進みます。革命の余波は、隣り合う二つの大国を、国境の油田の上で正面から激突させることになるのです。
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