黒い黄金の発見 — チャーチルの賭けと1908年
一度もペルシャの地を踏まぬまま、全財産を荒野に注ぎ込んだ実業家がいた。天然痘と盗賊と灼熱の現場で、撤退命令の直後に噴き上がった一柱が、大英帝国の命運と中東の百年を決めた。1908年、石油が「国家の血液」になった瞬間の物語。
2026年6月11日
前回、石油はまだ「便利な泥」にすぎなかった。地面ににじみ出た黒い塊を拾い、防水し、接着し、ときに燃やす——それが数万年にわたる石油との付き合い方だった。この静かな素材を世界の中心へ引きずり出したのは、煙と鉄の時代、産業革命である。機械が石炭を貪り、やがて人類は、石炭よりも強力な「血液」を求め始める。物語の舞台は、19世紀末の大英帝国と、その視線の先にあるペルシャの荒野へ移る。
- 1901.5
イギリスの実業家ダーシーが、カージャール朝のシャーから60年間の石油独占利権を取得。一時金£20,000・将来利益の16%が条件。
- 1905
資金の尽きたダーシー事業に、グラスゴーのバーマ・オイルが出資。事業は子会社化される。
- 1908.5.26
ペルシャ南西部マスジェデ・ソレイマーンで、深さ1,180フィートから中東初の商業油田が噴出。
- 1909.4.14
アングロ・ペルシャ石油会社(APOC、のちのBP)が設立される。
- 1914
チャーチルの主導で、英政府がAPOC株の51%を取得。国家が一企業の油田を握った。
石炭から石油へ — チャーチルの賭け
19世紀末、世界の海を支配していたのは、石炭を焚いて進む大英帝国の軍艦だった。だが石炭には拭いがたい弱点がある。重く、かさばり、燃料庫の底に溜まった灰をかき出す手間がかかり、そして煙が多い。何より、補給に人手と時間を食う。港に停まった軍艦へ石炭を積み込むのは、何百人もの水兵が石炭袋を担いで甲板を往復する、汗と粉塵にまみれた重労働だった。
そこへ立ち現れたのが石油である。石炭より軽く、同じ重さでより大きな力を生み、煙も少ない。煙が少なければ、遠くから艦隊の位置を悟られにくいという戦術上の利点もある。そして決定的なのが補給の速さだった。石炭のように担いで運ぶのではなく、ポンプでパイプを通して送り込むだけで済む。同じ容量の燃料庫でより遠くまで走れる——エネルギー密度の高さは、そのまま軍艦の航続距離と速度に変わる。当時、英海軍を率いる海軍大臣ウィンストン・チャーチルは、1913年、3カ年の海軍拡張計画の一環として、主力艦の燃料を石炭から石油へ切り替える歴史的な決断を下した。
ここで大英帝国は重大な問題に突き当たる。本国には、石油が出ない。 海軍の命綱となる燃料を、自国の土からは一滴も生み出せない。しかもチャーチルは、アメリカのスタンダード・オイルや英蘭のシェルといった巨大石油資本に海軍の生命線を握られることを嫌った。他者の善意に依存しない、安定した「自分の油田」を国の外に確保しなければならない——。多様な供給源にこだわったチャーチルの執念は、この危うさを誰よりも早く見抜いていたことの裏返しだった。
一度もペルシャを見なかった男
イギリスが目をつけたのが、近代化に立ち遅れていたペルシャ(現在のイラン)だった。そして、この地にすでに手を打っていた人物がいた。イギリスの実業家ウィリアム・ノックス・ダーシーである。
ダーシーは、オーストラリア・クイーンズランドの金鉱マウント・モーガンで巨富を築いた男だった。保有株の価値は一時600万ポンドを超えたと伝えられ、渡英後はロンドンのグロヴナー・スクエアに邸を構え、エプソム競馬場には専用のボックスまで持っていた。その彼が、1901年5月、カージャール朝のシャー、モザッファル・アッディーンから「石油を探し、掘り、運び、売ってよい」という広大な独占利権を取得する。世に言うダーシー利権だ。条件は、一時金2万ポンドと同額の株式、そして将来利益の16%。対象は北部5州を除くペルシャ全土、およそ48万平方マイル。期間は60年間にわたった。
だが、ダーシーには奇妙な一点がある。彼は生涯、一度もペルシャの地を踏んでいない。灼熱の荒野も、掘削の櫓も、自分の目で見ることはなかった。彼が賭けたのは、地図の上の権利と、遠い技師たちから届く報告だけである。それでも彼は、この見たこともない土地へ全財産を注ぎ込んでいく。1908年までにペルシャへ投じた額は50万ポンドを超え、当代随一の富豪だったはずのダーシーは、破産寸前まで追い込まれていた。
天然痘と盗賊と、五〇度の荒野
その荒野に立った技師の名を、ジョージ・B・レイノルズという。彼は地質学者として掘削を指揮し、来る日も来る日も、成果の出ない穴を掘り続けた。1902年末にチア・スルフで掘削を始め、1904年初めにいったんは石油を得たものの、量は事業を支えるに足りなかった。資金は溶けるように消えていく。ダーシーはすでに16万ポンドを費やし、ロイズ銀行に17万ポンド超の当座貸越を抱えていた。1905年、グラスゴーのバーマ・オイルが出資に加わり、ダーシーの事業は子会社化される。パトロンの財布は限界を迎えていた。
現場の過酷さは、いまに伝わる記録が生々しく物語る。ある記述によれば、この地では「天然痘が猛威を振るい、盗賊や軍閥が土地を支配し、水はほとんど手に入らず、気温はしばしば摂氏50度を超えた」という。近代的な機材も、医療も、治安もない。技師たちは病と暴力と渇きに囲まれながら、ただ地面に穴をうがち続けた。掘っても、掘っても、石油は出ない。1906年にシャルディン、1907年にはマスジェデ・ソレイマーンへと現場を移しても、事態は好転しなかった。
やがて本国の忍耐が尽きる。1908年5月初旬、ロンドンから一通の指示が発せられた——「作業を中止し、スタッフを解雇し、海岸へ運ぶ価値のあるものはすべて解体し、帰国せよ」。撤退命令である。数万ポンドの夢は、ここで潰えるはずだった。
上に掲げたのは、後年、政治家であり探検家でもあったアーノルド・ウィルソンがレイノルズに寄せた評として伝えられる言葉である。歴史はしばしば、決定的な瞬間に現場でシャベルを握っていた者の名を忘れる。だが少なくとも、ウィルソンのようにその功績を書き留めた者がいた。伝えられるところでは、レイノルズは撤退命令に従うのを「遅らせた」。この直後に、歴史が動く。
なお、この撤退電報の逸話——命令を無視して掘り続けた技師の英雄譚——は、劇的であるがゆえに後世の脚色が入り込みやすい。撤退命令が出されたこと、そして間もなく石油が噴き出したことは記録に残る。だが、それが電報の物理的な遅延だったのか、意図的な命令無視だったのかまでは、断定できない。ここでは「撤退の縁で発見が起きた」という、動かしがたい事実にとどめておきたい。
一九〇八年五月二六日、噴き上がった一柱
1908年5月26日、午前4時。ペルシャ南西部のマスジェデ・ソレイマーン。夜明け前の掘削現場で、深さ1,180フィート(約360メートル)に達した掘管の先から、地鳴りとともにガスが噴き出し、続いて黒い油が高々と噴き上がった。伝えられるところでは、その油柱は50フィートの高さに達したという。中東で初めて、商業規模の大油田が姿を現した瞬間だった。撤退を覚悟していた現場に、天地がひっくり返るほどの逆転が訪れたのである。
この発見を受け、翌1909年4月14日、油田を運営するアングロ・ペルシャ石油会社(APOC)が設立される。バーマ・オイルの子会社として株式を一般公開する形をとった。皮肉なことに、資金の出し手はバーマ・オイルと、のちの英政府だったため、全財産を賭けたダーシー本人の名は社名に残らなかった。彼は取締役に名を連ねたにとどまる。1911年にはマスジェデ・ソレイマーンの油田から、河口の島に築いたアバダン製油所までパイプラインが引かれた。このアバダン製油所は、以後およそ半世紀にわたり世界最大の製油所であり続ける。
そして1914年、海軍燃料の安定確保を狙うチャーチルの主導で、イギリス政府がAPOC株の51%を取得した。契約期間は20年。一民間企業の油田を、国家が直接その支配下に置いたのである。政府は、この会社にとって「事実上の隠れた権力」となった。
「血液」を手にした帝国、蒔かれた火種
こうして大英帝国は、自国の海軍を動かす石油を、遠いペルシャの地下に確保した。一方ペルシャの側に落ちるのは、その富のごく一部——利益の16%という「使用料」だけである。掘り当てる技術も、運ぶパイプラインも、精製する製油所も、売りさばく市場も、すべて外国の手の内にあった。
このねじれは、時とともに歪みを深めていく。のちの記録によれば、1947年、この会社(当時はアングロ・イラニアン石油会社と改称されていた)は税引後4,000万ポンドもの利益を計上したが、イラン側への支払いは700万ポンドあまり、率にして17.5%ほどにとどまったとされる。油田で働くイラン人労働者の多くは、劣悪な住環境と賃金に置かれた。この不均衡が、やがて資源を自国の手に取り戻そうとする巨大なうねりを生む。APOCは1935年にアングロ・イラニアン石油会社(AIOC)へ、1954年にはBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)へと名を変えるが、その途上の1951年、イランは石油の国有化に踏み切り、国営石油会社NIOCが産声を上げる——その物語は、この連載の先で詳しく語ることになる。
石油はもはや、防水材でもミイラの薬でもない。国の存亡を左右する戦略物資、いわば近代国家の血液となった。そして血液である以上、それを断つこと、奪うこと、独占することが、そのまま国家の力を意味するようになる。石油の確保は、第一次世界大戦の前後で「極めて重要な事柄」へと格上げされた。軍艦だけではない。自動車が、戦車が、空を飛ぶ飛行機が、石油を貪る時代が始まろうとしていた。
もっとも、石油が二十世紀のすべての戦争と対立を単独で決めた、と言い切るのは行き過ぎだろう。ナショナリズム、冷戦、脱植民地化——歴史はいつも複数の力が絡み合って動く。それでも、その絡み合いのなかで石油が「要(かなめ)」として働き続けたことは、これから見ていくとおりである。チャーチルの賭けは大英帝国に力をもたらした。だが同時に、決して自分たちだけでは満たせない渇きを、近代国家に植えつけたのだった。
この危うい構図は、まもなく現実の暴力として噴き出す。1908年の一柱から数年後、人類は史上初の総力戦——第一次世界大戦へと突き進む。戦車が、軍艦が、飛行機が、石油を求めて唸りを上げる。やがて勝者たちは地図の上に定規を当て、中東という土地に新しい国境線を引いていく——。物語は、大戦と分割の時代へ。
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