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減らす交渉 ― 七万発の核を、どう手放すか

増やすことしか知らなかった米ソが、初めて核を減らすテーブルについた。SALTからSTART、そして一つの兵器の種類を丸ごと消したINF全廃条約まで。冷戦の終わりとともに進んだ軍縮の長い道のりと、それでもなお残る膨大な核を見つめる。

2026年6月13日

ここまでの物語で、人類は核という力をひたすら増やし続けてきた。より強く、より多く、より遠くまで届く兵器を。米ソは互いを滅ぼせる量の核を抱え込み、その均衡の上に危うい平和を築いていた。

ところが、ある時点から二つの超大国は、それまで一度も真剣に取り組んだことのない問いに向き合い始める。「どうすれば、この核を減らせるのか」。増やす技術なら、人類はよく知っていた。けれども、敵対する相手を信用しながら自分の牙を抜いていくこと、それは比べものにならないほど難しい作業である。この回では、米ソ(のちに米ロ)が積み重ねた軍縮交渉の長い道のりを、その成果と限界の両面からたどる。

まず「増やすのをやめる」ことから ― SALT

最初の一歩は、減らすことではなく、際限のない増加に上限を設けることだった。

1969年に始まった米ソの交渉は、1972年に最初の合意へと結実する。戦略兵器制限交渉、頭文字をとってSALTと呼ばれる枠組みである。このときに結ばれたのは、戦略核の運搬手段の数に一時的な上限を設ける暫定協定と、もう一つ、弾道ミサイルを迎え撃つ防衛システムを制限する条約だった。

なぜ、迎撃する側の兵器まで制限したのだろうか。背景には、前の回までに触れた相互確証破壊の論理があった。互いに相手を確実に滅ぼせる状態が崩れると、かえって先制攻撃の誘惑が生まれかねない。防衛網を競って築けば、際限のない軍拡を招く。そう考えた両国は、あえて防御の兵器に枠をはめたのだ。

続くSALTの第二段階は1979年に署名にこぎつけた。多弾頭ミサイルなどを含め、より踏み込んだ制限をめざすものでしたが、同じ年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻で米ソ関係は急速に冷え込み、アメリカ議会はこの条約を承認しなかった。軍縮への道は、こうしてしばしば国際情勢の荒波に押し戻されながら進んでいく。

一つの兵器を、丸ごと消す ― INF全廃条約

1980年代の前半、米ソの緊張はふたたび高まっていた。ヨーロッパには両陣営の中距離ミサイルが配備され、警戒が続く。ところがソ連にゴルバチョフが登場し、対話の機運が生まれると、状況は大きく動きはじめた。

そして1987年12月、アメリカのレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が、画期的な条約に署名する。中距離核戦力全廃条約、INF全廃条約である。これは射程およそ五百キロから五千五百キロの地上発射型ミサイルを、両国がそろって全廃するという内容だった。

この条約が歴史的だったのは、単に数を減らしたのではなく、一つの種類の核兵器を地上から丸ごと消し去ったという点にある。それまでの交渉が上限を定めるものだったのに対し、INFは初めて、ある分類の核戦力をまるごとゼロにする約束だった。現地での査察を互いに受け入れる仕組みも盛り込まれ、敵同士が相手の基地に立ち入って検証し合うという、かつてなら考えられなかった信頼の作法が実現する。

  1. 1972

    SALTの最初の合意。運搬手段の上限と、迎撃ミサイルを制限する条約が成立。

  2. 1979

    SALTの第二段階に署名。だが米ソ関係の悪化で未承認に終わる。

  3. 1986

    世界の核弾頭がおよそ7万発のピークに達したとされる。

  4. 1987

    INF全廃条約。中距離ミサイルという一分類を米ソが全廃。

  5. 1991

    STARTに署名。配備する戦略核弾頭の本格的な削減が始まる。

ピークから、減少へ ― STARTの時代

INF全廃条約と前後して、冷戦そのものが終わりに近づいていた。この大きな転換が、いよいよ核弾頭の数そのものを減らす交渉を後押しする。

世界に存在する核弾頭の数は、1986年ごろにおよそ七万発というピークに達したとされる。人類を何度も滅ぼせる量という言葉が、決して比喩ではなかったことを物語る数字である。その膨大な山を切り崩す試みが、戦略兵器削減条約、STARTだった。

1991年に署名されたSTARTは、両国が配備する戦略核を大幅に減らすことを定める。それまでの「増やさない」から、ついに「減らす」への転換だった。冷戦の終結とソ連の解体という激動を経て、交渉の相手はソ連からロシアへと引き継がれ、軍縮の枠組みもまた、その時々の関係に合わせて新しい条約へと更新されていく。2010年に署名された新STARTでは、両国が配備できる戦略核弾頭の数がそれぞれ千五百発台にまで抑えられた。ピーク時と比べれば、世界全体の核の量は大きく減ったことになる。

交渉が教えてくれること

米ソ、そして米ロの軍縮交渉の歴史は、いくつかの大切なことを教えてくれる。

一つは、敵対する相手とでも、約束と検証の仕組みさえ作れれば、兵器を減らすことは不可能ではないということ。査察を受け入れ、互いの数を数え合うという地道な作法こそが、削減を支える背骨だった。もう一つは、その流れがいかにもろいかということである。国際情勢が悪化すれば交渉は止まり、信頼が崩れれば条約は宙に浮く。軍縮は、結ばれた瞬間に完成するのではなく、結び直し続けることでようやく保たれるものだった。

抑止こそが平和を守るという立場からは、一定の核を保つことが安定につながるとされる。一方で廃絶を求める立場からは、減らす歩みをさらに進め、いつかゼロをめざすべきだとされる。この二つの考え方は、軍縮交渉の現場でつねに交差し、せめぎ合ってきた。どちらの側にも与せず、ただ事実として言えるのは、人類は核を増やすことも、減らすことも、その手で選んできたということである。

七万発から一万発あまりへ。この道のりは、力に酔った人類が、自らの理性で少しずつ牙を抜いていった記録でもある。けれども、安心するにはまだ早すいだ。冷戦という大きな対立の構図が消えたあとも、核そのものは世界から消えなかったのだ。それどころか、これまでとは違う顔をした脅威が、新たに頭をもたげようとしていた。冷戦が終わっても核は消えなかった。むしろ新たな顔をした脅威が、世界に現れはじめるのだ。

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