13日間 ― 世界が滅びかけた秋
1962年10月、ソ連がキューバに核ミサイルを運び込んだ。海上封鎖、撃墜された偵察機、海中で発射を踏みとどまった一人の将校――人類が核戦争に最も近づいた13日間を、ケネディとフルシチョフの瀬戸際の選択とともに、史実に沿ってたどる。
2026年6月13日
前回、私たちは米ソが水爆を手にし、互いを何度でも滅ぼせるほどの核を積み上げていった「恐怖の均衡」の時代を見た。相手が撃てばこちらも撃つ――その確信だけが戦争を押しとどめる、危うい平和だった。
その均衡が、ある秋、ぎりぎりまで崩れかける。1962年10月、カリブ海に浮かぶ島キューバをめぐって、世界は核戦争の瀬戸際に立たされた。後に「13日間」と呼ばれるこの危機は、人類が核戦争に最も近づいた時間だったと評されることが多い出来事である。この章では、その緊迫した日々を、二人の指導者と、名もなき人々の選択とともにたどる。
島に運び込まれた火
きっかけは、フロリダの鼻先にある社会主義国キューバだった。1959年の革命以降、キューバはソ連に接近していく。1962年、ソ連は秘密裏にこの島へ、核弾頭を搭載できる中距離ミサイルを運び込みはじめた。
その意図については、いくつかの見方が併記されてきた。アメリカの侵攻からキューバを守るためだったとする説、トルコなどに配備されたアメリカの中距離ミサイルへの対抗だったとする説などである。いずれにせよ、もしミサイルが完成すれば、アメリカの主要都市の多くが短時間で射程に入ることになる。
1962年10月、アメリカの高高度偵察機U-2がキューバ上空で撮影した写真が、建設中のミサイル基地をとらえた。ケネディ大統領のもとに報告が上がったのは10月16日。ここから、緊張に満ちた日々が始まる。
封鎖か、攻撃か
ケネディは、国家安全保障会議の執行委員会(EXCOMM)と呼ばれる側近の集まりを断続的に開き、対応を練った。選択肢は大きく分かれていたと伝えられる。
軍の一部は、基地が完成する前に空爆で破壊し、必要なら島へ侵攻すべきだと主張した。一方で、空爆はソ連兵の犠牲を生み、全面戦争へ直結しかねないという懸念も強くあった。議論の末にケネディが選んだのは、武力攻撃ではなく「海上隔離」、すなわち海上封鎖だった。これ以上の軍事物資が島へ運び込まれるのを、海上で阻止するという手段である。
10月22日、ケネディはテレビ演説でミサイルの存在と封鎖を国民に明かし、世界に衝撃が走った。封鎖線へ向かうソ連の船団。それを待ち受けるアメリカ艦隊。両国の核戦力は高い警戒態勢に置かれ、世界はかたずをのんで成り行きを見守った。
- 1962年10月16日
U-2偵察機の写真でキューバのミサイル基地建設が確認され、ケネディが報告を受ける。
- 1962年10月22日
ケネディがテレビ演説でミサイルの存在を公表し、海上封鎖を宣言する。
- 1962年10月27日
U-2がキューバ上空で撃墜され、操縦士が死亡。危機が最高潮に達する。
- 1962年10月28日
フルシチョフがミサイル撤去を発表し、瀬戸際で危機が回避される。
封鎖線の前で、ミサイル関連物資を積んだとされるソ連の船の一部が引き返したと伝えられている。一触即発の海上で、最悪の衝突はかろうじて避けられた。けれども、危機はまだ終わっていなかった。
暗黒の土曜日と、海中の一人
最も危険だったのは、10月27日とされる。後に「暗黒の土曜日」と呼ばれる日である。
この日、キューバ上空を偵察していたアメリカのU-2がソ連側の地対空ミサイルに撃墜され、操縦士のルドルフ・アンダーソン少佐が死亡した。報復を求める声が高まり、全面戦争への引き金が引かれかねない瞬間だった。
さらに、ほとんど知られないまま、海の中でも危機が進行していたと伝えられている。アメリカ艦隊は、封鎖海域に潜んでいたソ連の潜水艦に、浮上を促すための爆雷を投下した。長く潜航し通信も途絶えていた潜水艦の内部では、これを攻撃と受け取り、核魚雷の発射をめぐって意見が割れたと報じられている。発射には複数の士官の同意が必要で、そのうちの一人、ワシーリー・アルヒーポフが最後まで反対し、発射は思いとどまられたと伝えられている。
瀬戸際からの後退
破局が迫るなかで、水面下の交渉が動いていた。フルシチョフからケネディへ、相次いで書簡が届く。ソ連側は、アメリカがキューバを侵攻しないと約束すること、そしてトルコに配備されたアメリカの中距離ミサイルを撤去することを求めたと伝えられている。
ケネディは、キューバ不侵攻の約束を表向きの条件として受け入れた。トルコのミサイルについては、公の取引とはせず、後に撤去する意向を非公式に伝えたとされる。弟のロバート・ケネディ司法長官がソ連大使と密かに会い、この事実上の了解が結ばれたと語られている。互いが面目を保てる落としどころを探った、ぎりぎりの妥協だった。
10月28日、フルシチョフがミサイルの撤去を発表する。13日間の危機は、こうして瀬戸際で回避された。どちらが勝ったかではなく、双方が一歩引いたことで、世界は破局を免れたのだ。
この経験は、二つの教訓を残したといわれる。一つは、核を持つ大国どうしの偶発的な衝突を防ぐ仕組みが必要だということ。危機の後、米ソ首脳が直接連絡を取れる回線(いわゆるホットライン)が設けられた。もう一つは、軍縮や核実験の規制へ向けた対話の必要性である。翌1963年には、大気圏内などでの核実験を禁じる部分的核実験禁止条約が結ばれた。
恐怖が世界を凍りつかせたあの13日間は、皮肉にも、対話への小さな扉を開いたともいえる。けれども、核という火そのものが消えたわけではなかった。米ソだけのものだったその火は、このころすでに、より多くの国の手へと広がりつつあったのだ。次章では、核を持つ国が増えていく時代と、それを抑えようとした条約の矛盾を見ていく。
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