朝鮮戦争 ― 同じ民族の戦争
1950年6月、北緯38度線を越えて戦車が南下した。仁川上陸、中国義勇軍の参戦、そして1953年の休戦。三年の戦火は同じ民族を引き裂き、おびただしい犠牲を残した。犠牲者数には諸説があることを明記しつつ、朝鮮戦争を中立に描く。
2026年6月12日
前話で私たちは、解放の歓喜のあとに半島が南北へ分けられ、1948年に二つの政府が並び立つさまを見た。互いを正統と主張する大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国。38度線は、地図の上の便宜的な線から、二つの国家を隔てる境界へと変わっていた。
だが、境界は緊張をはらんでいた。どちらの政府も半島全体の統一を掲げ、38度線の周辺では小競り合いが絶えなかったとされる。冷戦が世界を二分するなかで、半島はその最前線の一つになっていく。
そして1950年6月、その緊張はついに全面戦争へと噴き出した。同じ言葉を話し、同じ歴史を分かち合う人々が、互いに銃を向け合う三年が始まる。
38度線を越えた戦車
1950年6月25日未明、北の軍が38度線を越えて南へ進攻した。複数の資料によれば、この南進は、ソ連の指導者スターリンと中国の毛沢東の同意や支援を背景に、金日成が決断したものとされる。冷戦下の大国の思惑が、半島の戦火に深く絡んでいたことがうかがえる。
準備に乏しかった南の軍は各地で押され、開戦からわずか数日でソウルが陥落した。北の軍はさらに南下を続け、南側はついに半島南端の釜山周辺まで追い詰められる。この防衛線は「釜山橋頭堡」と呼ばれ、ここを守り抜けるかどうかに、戦争の帰趨がかかっていた。
事態を受け、国際連合の安全保障理事会は北の行動を侵略と認定し、加盟国に韓国支援を求める決議を採択した。当時ソ連が安保理を欠席していたことが、この決議の成立を後押ししたと伝えられる。アメリカを中心に多くの国が兵を送り、国連軍が編成された。半島の戦争は、ここで国際的な戦争という性格を帯びることになる。
開戦の経緯や責任をめぐっては、立場によってさまざまな語られ方がされてきた。北の側は南からの挑発への反撃と主張し、南や国連の側は北による計画的な侵攻と位置づけてきた。だが、ソ連崩壊後に公開された資料などにもとづき、北が主導して南進を計画したとする見方が、今日では広く共有されているとされる。ここでも事実関係には引き続き研究が積み重ねられており、断定を避けつつ史実をたどることが求められる。
仁川上陸と、戦線の往復
戦局は、一つの作戦によって劇的に反転する。
1950年9月15日、国連軍を率いるマッカーサーは、北の軍の背後を突くべく、半島中西部の港湾都市・仁川への上陸作戦を敢行した。潮の干満差が大きく、上陸は困難とされた地だったが、奇襲は成功する。背後を断たれた北の軍は急速に崩れ、9月28日には国連軍がソウルを奪回した。半島南端まで追い詰められていた戦線は、一気に押し返された。
勢いに乗った国連軍と韓国軍は38度線を越えて北へ進撃し、平壌を制圧、さらに中国との国境を流れる鴨緑江へと迫った。だが、北の領域が国連軍に制圧されることを、中国は自国の安全保障への脅威と受け止めた。
- 1950年6月
北の軍が38度線を越えて南進。数日でソウルが陥落する
- 1950年9月
国連軍が仁川上陸作戦を敢行し、ソウルを奪回。戦線が反転する
- 1950年10月
中国人民義勇軍が鴨緑江を越えて参戦。国連軍が後退する
- 1951年
戦線が38度線付近で膠着し、戦争が長期化する
- 1953年7月
板門店で休戦協定が調印され、軍事境界線が定まる
1950年10月、中国は「人民義勇軍」の名のもとに大軍を派遣し、鴨緑江を越えて参戦した。これを義勇軍と称したのは、米中の全面戦争という事態を避けるための形式だったとも指摘される。圧倒的な兵力に押され、国連軍は再び後退し、平壌を放棄、ソウルも一時的に再び失われる。戦線は半島を南へ北へと往復し、おびただしい人と街が戦火に呑まれていった。やがて両軍は38度線付近で押し合い、戦争は膠着状態に入っていく。
この往復のあいだ、半島の人々は幾度も戦火の下を逃げ惑った。南北の軍が入れ替わるたびに、その土地の住民は厳しい状況に置かれたと伝えられ、北から南へ、あるいは南から北へと、無数の人々が故郷を離れた。前線が動くということは、地図の上の矢印ではなく、家を追われる人の列が動くことでもあった。戦争の長期化は、勝敗の行方とは別に、半島の社会そのものを深く疲弊させていく。
引かれたままの線
膠着のなかで、戦闘と並行して休戦交渉が始まった。だが、捕虜の扱いなどをめぐって交渉は難航し、その間にも前線では犠牲が積み重なっていった。
1953年7月27日、板門店で休戦協定が調印された。これは戦争を終わらせる講和条約ではなく、あくまで戦闘を停止する協定だった。両軍が対峙する線に沿って軍事境界線が定められ、その周囲には双方が兵を置かない非武装地帯が設けられた。皮肉なことに、戦争が始まる前とほぼ同じ、38度線付近に線は引き直された。三年の戦火は、半島の境界をほとんど動かさなかったのである。
この戦争がもたらした犠牲は甚大だった。軍人・民間人を合わせた死者・行方不明者の数は、数百万人にのぼるとされる。南北それぞれの軍人、巻き込まれた民間人、参戦した国連軍や中国軍の将兵――その総数については資料によって幅があり、確定した値はなく、諸説があることを明記しておきたい。いずれの推計をとっても、半島の人口に比してきわめて大きな喪失であったことは共通している。
同じ言葉を話す人々が、同じ土地で銃を向け合った三年。その傷は、地図の上の線としても、引き裂かれた家族の記憶としても、半島に深く刻み込まれた。大国の論理に巻き込まれた戦火は、勝者も敗者も明確に残さないまま、ただ分断だけを固定して終わったのである。
そして、この休戦のあと、軍事境界線を挟んだ南と北は、まったく異なる体制のもとで、正反対の道を歩み始めることになる。繁栄を目指す南と、独自の体制を築く北。次の章では、その対照的な二つの歩みを見つめていこう。
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