三十六年 — 植民地統治の光と影
朝鮮総督府による統治の三十六年。鉄道や学校といった近代化と、同化政策・創氏改名・戦時動員という支配の現実が同居した時代である。三・一独立運動、武断政治から文化政治への転換、そして加害と被害の双方を、評価の対立を諸説併記で中立にたどる。
2026年6月12日
前回、私たちは大韓帝国が地図から消え、半島が朝鮮総督府の統治下に入るところまでを見届けた。ここから一九四五年までの三十六年間が、いわゆる植民地統治の時代である。この時代ほど、見る人の立場によって描かれる風景が変わる主題はない。鉄道が敷かれ、学校が建ち、人口が増えたという事実を近代化の側面として語る声がある一方で、土地や資源が奪われ、言葉や名前が変えられ、人々が戦争へ動員されたという収奪と同化の現実を訴える声がある。どちらか一方だけを取り上げれば、それは半分の歴史にしかならない。この回では、加害と被害の双方を、評価の対立をそのまま併記しながら、できるだけ冷静にたどっていく。
- 1910
韓国併合により朝鮮総督府が統治を開始。当初は憲兵警察を軸とする厳しい統治がしかれ、後に武断政治と呼ばれたとされる。
- 1919
三・一独立運動。三月一日のソウルでの独立宣言を機に、独立を求める運動が半島全土に広がる。
- 1920年代
三・一運動を受け、言論・出版などを限定的に認める文化政治へと統治方針が転換されたとされる。
- 1939〜45
創氏改名や戦時動員など、いわゆる皇民化政策と戦争協力の要請が強まったとされる。
武断から文化へ ― 統治はなぜ転換したか
併合直後の統治は、後に武断政治と呼ばれることになる。半島の各地に日本の軍や憲兵・警察が配置され、独立運動や抵抗の動きを厳しく取り締まる体制が敷かれたとされる。憲兵が警察を兼ねる仕組みのもとで、人々の言論や集まりは強く制約されていたと、複数の記録が伝えている。
この体制を大きく揺さぶったのが、一九一九年の三・一独立運動だった。三月一日、ソウルのパゴダ公園(現在のタプコル公園)で独立宣言が読み上げられたのを機に、独立を求める運動が半島全土へと一気に広がっていく。前年にアメリカのウィルソン大統領が掲げた民族自決の理念が、世界中の被支配地域を勇気づけていた時期にあたり、その潮流が半島にも及んだとされる。
この運動の弾圧をめぐる犠牲者の数については、史料によって大きな開きがある。当時の朝鮮総督府の記録では死者は五百人あまりとされる一方、上海で独立運動に関わった朴殷植の著書では死者七千五百人あまりと記され、近年の韓国の研究機関による集計では九百人あまりとするものもある。数字がこれほど食い違う以上、単一の確定値で語ることはできない。確かなのは、多くの人命が失われる激しい衝突があったという事実と、その規模をめぐって今なお論争が続いているという事実である。
近代化と収奪 ― 同じ事実の二つの顔
この時代を語るとき、最も鋭く対立するのが、近代化と収奪をめぐる評価である。
統治下の半島では、鉄道や道路、港湾が整備され、近代的な学校や病院が設けられ、農業の生産や工業化が進み、人口が増えたといった事実が指摘される。これらを、半島の近代化に寄与した側面として評価する声がある。一方で、同じ時期に、土地調査事業を通じて多くの農民が土地の権利を失ったとされること、米をはじめとする生産物が日本本土へ移出され半島内の食糧事情が圧迫されたとされること、工業化や開発がまず日本の都合に沿って進められたとされることを挙げ、それは半島の人々のための近代化ではなく、収奪のための仕組みだったと訴える声がある。
難しいのは、これらが別々の出来事ではなく、しばしば同じ事実の二つの顔だという点である。たとえば鉄道は、人や物の往来を便利にすると同時に、資源や兵を運ぶ動脈にもなった。学校の普及は識字率を押し上げたとされる一方で、その教育の内容には、後に触れる同化の意図が織り込まれていたと指摘される。一つの事実を「近代化」と呼ぶか「収奪の手段」と呼ぶかは、どの側面に光を当てるかによって変わってくる。だからこそ、片方の顔だけを見て全体を語ることには慎重でありたいのだ。
名前と動員 ― 同化政策の重み
統治の後半、とりわけ日中戦争から太平洋戦争へと向かう時期には、半島の人々を日本の臣民として一体化させようとする、いわゆる皇民化政策が強まったとされる。その象徴としてしばしば語られるのが、一九四〇年前後に進められた創氏改名である。
創氏改名は、朝鮮古来の姓に代えて日本式の氏を設けさせる「創氏」と、名を日本式に改める「改名」という二つの要素からなるとされる。研究では、その本来のねらいが、父系の血縁集団を基盤とする朝鮮の家族のあり方を日本の家制度に近づけ、天皇への忠誠を植え付けることにあったと論じられている。氏の届け出は強く促され、届け出のない場合には世帯主の姓をもとに氏が定められたとされる一方、名を改めること自体は形式上は任意とされ、実際に名まで変えた人は限られていたとも指摘される。それでも、自らの名前という、人の尊厳に深く結びついたものに統治が踏み込んだ事実は重く、これを民族の尊厳を傷つける同化の強制と受け止める声は根強くある。
三十六年という歳月のあいだに、半島は深く変えられた。鉄道が走り、学校が増え、暮らしのかたちが近代へと組み替えられていく一方で、土地が、言葉が、名前が、そして人そのものが、統治と戦争の論理のなかに組み込まれていった。その経験は、解放の後も長く半島の人々の記憶に残り、日本との関係を考えるときの土台となっていく。
そして一九四五年、日本の敗戦が、この三十六年に唐突な終止符を打つ。けれど、それは半島にとって平穏な解放の始まりではなかった。一つの支配が去ったあとに待っていたのは、新たな大国によって半島が二つに分けられるという、予期せぬ運命だったのだ。
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