民主化への道 ― 韓国の激動
朴正煕暗殺から光州事件、1987年の民主化宣言、ソウル五輪、そして1997年のIMF危機まで。韓国が自由と民主主義を勝ち取り、経済の試練に直面した激動の二十年を、犠牲者数の諸説を明記しつつ、光と影の両面から中立に描く。
2026年6月12日
前話で私たちは、休戦線の南北が正反対の道を歩み始めたことを見た。南は開発独裁のもとで漢江の奇跡を遂げ、豊かさを手にしつつあった。けれども、その豊かさは自由とセットではなかった。
経済が伸びるほど、人々の暮らしは変わり、教育は広がり、都市には多くの人が集まった。そして、豊かになった社会は、次第に別の問いを抱え始める。なぜ、自分たちは自分たちの手で指導者を選べないのか――と。
この回で描くのは、韓国が自由と民主主義を求めて揺れ動いた、激しい二十年である。そこには、流された血があり、勝ち取られた権利があり、そしてその先に待っていた経済の試練があった。特定の政権を賛美も断罪もせず、この時代の光と影の双方を、できるだけ冷静に見つめていきたい。
銃声と、暗い春
激動の引き金を引いたのは、一発の銃声だった。
1979年10月26日、ソウルの宮井洞にあった施設で、朴正煕大統領が側近である金載圭・大韓民国中央情報部部長によって射殺された。10・26事件と呼ばれるこの出来事は、十八年にわたった朴政権を、一夜にして終わらせた。長く続いた強い統治の中心が、突然失われたのである。
権力の空白のなかで、多くの人々は民主化への期待を抱いた。だが、その期待は長く続かなかった。軍の内部で実権を握った全斗煥らが、政治の主導権を握っていく。人々が望んだ自由への歩みは、再び軍によってさえぎられようとしていた。
そして1980年5月、その緊張は南西部の都市・光州で噴き出した。戒厳令の拡大に抗議する市民や学生のデモに対し、軍が実力で鎮圧に乗り出し、多数の死傷者が出た。光州事件と呼ばれるこの出来事は、韓国現代史でもとりわけ深い傷として記憶されている。
光州での出来事は、長く真相が公にされず、その評価をめぐって激しい議論が続いた。後に韓国社会は、これを民主化運動として位置づけ直していくことになる。だが、その血が流された当時、半島の南には、まだ暗い春が続いていた。
勝ち取られた一票
抑え込まれたかに見えた民主化への願いは、消えてはいなかった。1980年代を通じて、それは社会の底で静かに、しかし確実に広がっていった。
転機は1987年に訪れる。大統領を国民が直接選べるようにする憲法改正を求める声が、年を追うごとに高まっていた。だが全斗煥政権は、その年の4月、現行の憲法のまま次の政権へ移すという方針を打ち出し、改憲の議論そのものを止めようとした。
これに、人々の怒りが火をつけた。学生の拷問死や、デモのなかで催涙弾を受けて重傷を負った若者の存在が伝わると、抗議は一気に広がる。1987年6月、学生や労働者だけでなく、宗教者や会社員まで、広い層の市民が街頭に出た。6月民主抗争と呼ばれるこの運動は、約三週間にわたって全国を揺るがした。
そして6月29日、与党の大統領候補であった盧泰愚が、大統領直接選挙制への改憲などを受け入れる宣言を発表する。いわゆる民主化宣言である。この宣言を経て改憲が実現し、同年末には十六年ぶりに、国民が自らの手で大統領を選ぶ選挙が行われた。
- 1979
朴正煕大統領が暗殺される(10・26事件)
- 1980
光州事件、軍の鎮圧で多数の死傷者(犠牲者数は諸説あり)
- 1987
6月民主抗争を経て民主化宣言、大統領直接選挙制へ
- 1988
ソウルオリンピック開催、新たな民主体制が発足
- 1997
アジア通貨危機が波及、韓国がIMFの支援を受ける
翌1988年、韓国はソウルオリンピックを迎えた。前回と前々回の大会が東西陣営のボイコットで割れていたのに対し、この大会には米ソ両陣営の多くの国が顔をそろえたとされる。戦争で荒廃した最貧の国が、経済成長を遂げ、民主体制を発足させ、世界を迎える――五輪は、韓国にとって国際社会への大きな登場の舞台となった。豊かさに続いて、人々はついに自由をも手にしつつあった。
繁栄の影 ― 財閥とIMF危機
民主化と五輪を経て、韓国は自信に満ちた時代を迎えたかに見えた。だが、その繁栄には影も差していた。
成長を牽引してきたのは、財閥と呼ばれる巨大企業グループだった。製鉄、造船、自動車、電子と、幅広い産業を一つのグループが抱え、輸出を軸に規模を拡大していった。財閥主導の成長は、韓国経済を世界の表舞台へ押し上げる原動力であった。けれども同時に、特定の企業への過度な集中や、借り入れに頼った急拡大という弱さも抱え込んでいた。
その弱さが、1997年に表面化する。同年、タイを震源とするアジア通貨危機がアジア各地へ波及した。韓国でも、大規模な企業グループの破綻が相次ぎ、通貨が急落し、外貨が枯渇していった。その年の12月、韓国は国際通貨基金、すなわちIMFに資金支援を求めるに至る。
韓国の人々にとって、このIMF危機は深い衝撃だった。多くの企業が倒れ、職を失う人が相次ぎ、暮らしは一変した。一方で、この危機をきっかけに、企業や金融の構造を見直す改革が進められ、韓国経済はやがて立ち直っていく。痛みを伴いながらも、それは新しい段階への入り口でもあった。
危機を乗り越えようとする韓国の姿は、自由と繁栄を求めて歩んできた半島の南の、一つの到達点だった。だが、同じ頃、休戦線の北では、まったく別の、そしてより深刻な危機が静かに進行していた。次回、その北朝鮮が抱えた苦難と、核をめぐる新たな緊張を見ていく。
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