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韓国併合 — 主権の喪失

日露戦争で半島の主導権を握った日本は、1905年の保護条約で大韓帝国の外交権を奪い、1910年についに併合へと進んだ。ハーグ密使事件、義兵闘争、伊藤博文暗殺。主権が失われていく五年間を、評価の分かれる論点を併記しながら中立にたどる。

2026年6月12日

前回、私たちは日清・日露という二つの戦争を見届けた。清が退き、ロシアが退いた半島で、主導権はしだいに日本へ傾いていく。けれど「主導権を握る」ことと「主権を奪う」ことのあいだには、まだ大きな隔たりがあった。この回でたどるのは、その隔たりが五年あまりのうちに埋められ、大韓帝国という一つの国家が地図の上から消えていく過程である。ここは本シリーズでもとりわけ評価の分かれる主題にあたる。だからこそ、起きた出来事をできるだけ冷静に並べ、それをどう見るかについては複数の見方を併記しながら進めていく。

  1. 1905

    第二次日韓協約(乙巳条約)が結ばれ、大韓帝国の外交権が日本に移り、保護国とされたとされる。漢城に統監府が置かれる。

  2. 1907

    ハーグ密使事件。高宗が万国平和会議に密使を送るが各国に受け入れられず、高宗は退位に追い込まれたと伝えられる。第三次日韓協約で内政権も縮小。

  3. 1909

    初代統監を退いた伊藤博文が、ハルビン駅で安重根に暗殺される。

  4. 1910

    韓国併合条約が結ばれ、大韓帝国は日本に併合されたとされる。朝鮮総督府が設置される。

外交権が移った日 ― 一九〇五年の保護条約

物語の起点は、一九〇五年十一月の協約である。第二次日韓協約、あるいは結ばれた年の干支から乙巳条約とも呼ばれるこの取り決めによって、大韓帝国の外交はもはや自国の手では行えなくなり、対外的な交渉は日本を通すことになったとされる。そして漢城(現在のソウル)には、その内実を取り仕切る統監府が置かれ、初代統監には伊藤博文が就いた。

この協約をめぐっては、締結の経緯そのものが論争の的になってきた。日本側の記録では、所定の手続きを経て成立した条約だと位置づけられてきた一方、韓国の側からは、皇帝の正式な批准を欠き、軍事的な圧力のもとで押し付けられた無効な取り決めだったと訴える声が、今日まで根強く続いている。この点について両国の歴史学界が合同で検討を重ねてもなお、評価が一致しないことが知られており、史料の読み方をめぐる論争は決着していない。

ただ一つ、当時の半島の人々が強い衝撃を受けたという事実は、立場を超えて確かめられる。協約に反対して命を絶った高官がいたこと、各地で商店が店を閉じる抗議が起き、日本の支配に抵抗する義兵の動きが広がっていったことは、複数の記録が伝えるところである。外交権という、国家が国家であるための柱の一本が抜かれたことの重みを、人々は鋭く感じ取っていたのだろう。

密使と暗殺 ― 抵抗のかたち

主権が削られていく流れに、半島の側がただ黙って従っていたわけではない。一九〇七年、大韓帝国の高宗はオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送り、保護条約によって外交権を奪われた窮状を国際社会に訴えようとした。けれども密使たちは会議への参加を認められず、各国はこの問題に踏み込もうとしなかった。結果として、この出来事はかえって日本の半島支配を国際的に追認させる方向に働いたとされ、責任を問われた高宗は退位に追い込まれたと伝えられる。続いて結ばれた第三次日韓協約により、内政の権限もいっそう日本側へ移っていった。

抵抗はやがて、より激しいかたちもとる。一九〇九年十月、初代統監を退いていた伊藤博文が、満州のハルビン駅で安重根によって射殺された。安重根は、伊藤を東洋の平和を乱した人物とみなして凶行に及んだとされ、のちに獄中で東洋平和論を記したことでも知られる。彼を、独立のために身を投じた義士と評価する見方と、要人を暗殺したテロ行為だったと批判する見方は、今日まで鋭く対立している。ここでも私たちは、どちらか一方に断を下すのではなく、二つの評価が並び立っている事実そのものを記録にとどめておきたいと思う。

なお、伊藤の暗殺が併合を引き起こしたかのように語られることがあるが、史料に照らすとそれは正確ではない。半島を併合するという方針は、暗殺より前の一九〇九年の半ばには日本政府の閣議で固まっていたとされる。伊藤自身はもともと、ただちに併合するのではなく保護国のまま統治する漸進的な路線をとっていたとも言われ、その彼の不在が、より強硬な路線への転換を加速させたという見方がある。一つの暗殺事件をめぐっても、原因と結果の見立ては一様ではないのだ。

一九一〇年、国家が消えた ― 併合をどう見るか

そして一九一〇年八月、韓国併合条約が結ばれ、大韓帝国は日本に併合されたとされる。漢城には朝鮮総督府が置かれ、半島は日本の統治下に入った。一つの王朝と一つの帝国の歴史が、ここでいったん幕を下ろする。

この併合を、私たちはどう見ればよいのだろうか。評価は、おそらく本シリーズで最も激しく割れる主題である。一方には、当時の国際法のもとで結ばれた合法的な条約であり、混乱した半島に近代的な統治をもたらす側面もあったと位置づける見方がある。他方には、軍事的な圧力と外交権の剥奪を積み重ねた末に、実質的な選択の自由を奪って強いられたものであり、その正当性を認めることはできないと訴える声がある。条約の手続きの有効性、当時の国際法の評価、半島の人々の意思がどれだけ反映されたか——論点のどれをとっても、専門家のあいだで決着はついていない。

主権という、見えにくいけれど決定的なものが、五年あまりのあいだに少しずつ、そして決定的に失われていった。外交権が移り、内政権が縮み、ついには国家そのものが地図から消える。その過程に、半島の人々の抵抗と、大国どうしの力学と、評価の定まらない条約が、幾重にも折り重なっている。

こうして大韓帝国は姿を消し、半島は新たな時代へと押し出されていく。次に始まるのは、朝鮮総督府による統治の歳月である。そこには、鉄道や学校といった近代の装いと、同化政策や動員といった支配の現実とが、分かちがたく同居していた。光と影をどう見るかをめぐって、評価はさらに激しく交錯していく。

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