クロニカ クロニカ
← 皇室の歴史 ― 日本とともに歩んだ千年 の目次へ

戦争の時代の天皇

大正から昭和へ、軍部が台頭し国家が戦争へ傾いていく時代に、天皇はどのような立場に置かれていたのか。第二次大戦と終戦の聖断、そして今も評価が分かれる戦争責任の議論までを、特定の立場を取らず複数の見方を公平に併記しながら、敬意をもって静かにたどる。

2026年6月13日

前話で私たちは、明治維新が天皇を近代国家の中心へと押し上げていく道のりを見た。大日本帝国憲法のもとで、天皇は統治権を総攬する存在とされ、神聖にして侵すべからざる地位に置かれた。

だが、その近代国家は、やがて戦争の世紀へと足を踏み入れていく。この回で描くのは、その時代に天皇がどのような立場に置かれていたのか、という問いである。

あらかじめ断っておきたい。ここで扱う主題には、今も評価の分かれる論点が多く含まれる。とりわけ戦争責任をめぐっては、立場によって見方が大きく異なる。本稿は特定の政治的立場を取らず、複数の見方をできるだけ公平に併記し、断定を避けながら進める。煽ることも、礼賛することもなく、ただ歴史の歩みを静かにたどりたい。

大正から昭和へ ― 揺れる時代の始まり

明治天皇が崩御し、大正へと時代が移ったのは1912年のことだった。大正期には政党政治が広がり、後に大正デモクラシーと呼ばれる自由な気風が育ったとされる。

しかし大正天皇は健康を損なわれ、1921年からは皇太子であった裕仁親王、のちの昭和天皇が摂政を務めることになった。そして1926年12月、大正天皇の崩御を受けて皇位が継承され、昭和の時代が始まる。新たな天皇は、大日本帝国憲法と旧皇室典範の規定に基づき、第124代天皇となり、陸海軍を統べる大元帥でもあるとされた。

この時代、世界は大きく揺れていた。第一次大戦後の不況、関東大震災、そして昭和に入ってからの世界恐慌。社会の不安が深まるなかで、政党政治への失望が広がり、軍部が次第に発言力を強めていく。憲法上は天皇が統治権を総攬するとされながらも、実際の政治は内閣や軍、官僚といった機構を通じて動いており、天皇個人の意思がどこまで直接政治を動かしたのかは、後に大きな論点となっていく。

軍部の台頭と、統帥という難題

昭和の初め、政治の構造には大きな弱点が潜んでいたとされる。それが統帥権の問題である。

大日本帝国憲法では、軍隊を指揮する統帥の権は天皇に属するとされ、内閣の関与しにくい独立した領域と解釈されるようになっていった。この解釈が広まると、軍は内閣の統制から離れて行動する余地を持ち、政治と軍事のあいだに深い溝が生まれていく。

1931年の満州事変、そして1932年の五・一五事件、1936年の二・二六事件と、軍の一部が実力で政治を動かそうとする事件が相次いだ。二・二六事件のとき、昭和天皇が反乱の鎮圧を強く求めたことはよく知られている。こうした場面から、天皇が軍の暴走に懸念を抱いていたとする見方がある。一方で、結果として国全体が戦争へと傾いていったことをどう評価するかについては、見解が分かれている。

  1. 1912

    明治天皇が崩御し、大正へと改元される

  2. 1926

    大正天皇の崩御により皇位が継承され、昭和の時代が始まる

  3. 1936

    二・二六事件。昭和天皇は反乱の鎮圧を強く求めたとされる

  4. 1941

    対米英開戦。太平洋戦争へと突入していく

  5. 1945

    ポツダム宣言の受諾が決まり、玉音放送により終戦が告げられる

やがて日本は日中戦争の泥沼に踏み込み、1941年には対米英開戦へと至る。なぜ国家が戦争を止められなかったのか――この問いには、軍部の独走、政治指導の不在、国際情勢の緊迫など、さまざまな要因が絡み合っており、単純な答えはないとされる。天皇の役割についても、開戦の決定をめぐる経緯の解釈は、研究者によって異なっている。

聖断 ― 終戦という決断

戦局は次第に悪化し、本土への空襲が続き、二つの都市に原子爆弾が投下される事態に至った。国家の存続そのものが問われるなかで、戦争を終わらせるかどうかの判断が、最後の局面を迎える。

1945年8月、政府と軍の首脳が集まる御前会議が開かれた。ポツダム宣言を受諾して降伏するか、なお戦い続けるか。会議では意見が真っ二つに割れ、議論は紛糾したと伝えられる。受諾を主張する者と、国体の護持などを条件にあくまで反対する者とが、激しく対立した。

合議では決着がつかないなか、最終的に昭和天皇の判断を仰ぐ形で、ポツダム宣言の受諾が決まったとされる。これが、いわゆる聖断と呼ばれるものである。そして8月15日正午、玉音放送によって、戦争の終結が国民に告げられた。

戦争責任という、今も続く問い

戦後、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が開かれ、戦争指導者が裁かれた。だが昭和天皇は訴追されず、退位もされなかった。この事実をどう受け止めるかは、今に至るまで議論が続いている。

天皇が訴追されなかった背景については、占領統治を円滑に進めるための政策的な判断があったとする説明が広く知られている。つまり、訴追しないという判断は、歴史的な責任の有無を確定したものというより、占領という現実のなかでの選択だった、という見方である。それゆえ、訴追されなかったことが責任の議論を終わらせたわけではない、としばしば指摘される。

戦争責任という言葉そのものも、慎重に扱う必要がある。法的な責任、政治的な責任、道義的な責任――これらは別の次元の話であり、どの意味で語るかによって、議論はまったく違う様相を帯びる。この区別が曖昧なまま論じられると、賛否がすれ違ったまま平行線をたどりやすい、とも言われる。

なぜこの問いが長く続いてきたのか。先に見たように、統治の構造そのものが「巨大な権威」と「立憲君主としての制約」を同時に抱えていたこと、そして「責任」という言葉が複数の領域にまたがることが、議論を簡単には収束させない理由だとされる。本稿はそのいずれの立場にも与しない。ただ、これが軽々に断じられるべき主題ではなく、敬意と慎重さをもって見つめ続けるべき問いであることを、確かめておきたい。

戦争は終わった。だが、その敗戦は、天皇という存在のあり方そのものを根本から変えていくことになる。次話では、日本国憲法のもとで生まれた新しい天皇像――象徴天皇の誕生を見ていこう。

この記事は役に立ちましたか?

この物語が面白かったら——

X LINE

参考ソース・元動画