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古代の天皇 ― 大王から天皇へ

ヤマト政権の大王から、推古天皇と聖徳太子の時代、壬申の乱を経た天武・持統朝へ。律令国家が形をなし、「天皇」という称号が定まっていく古代の歩みを、史実にそって敬意をもってたどる第2話。

2026年6月13日

神話のものがたりが薄れ、人々の営みが記録として残り始めるとき、私たちはようやく歴史の光のなかに王たちの姿を見いだする。古代の日本に立ち上がったのは、近畿の地を中心とするヤマトの勢力だった。その頂点に立つ者は、はじめから「天皇」と呼ばれていたわけではない。「大王」と呼ばれた古代の王たちが、推古天皇の時代の改革を経て、壬申の乱という大きな転機をくぐり抜け、やがて「天皇」という称号と、それを支える律令という新しい国のしくみを手にしていく――第2話では、大王から天皇へと移りゆく古代国家の歩みを、史実にそってたどっていく。

  1. 5世紀

    近畿のヤマト政権が各地の豪族を従え、その頂点に立つ者は大王と呼ばれた。鉄剣の銘などにも大王の名がうかがえる。

  2. 593年

    推古天皇が即位したと伝えられ、その甥にあたる聖徳太子が政治を補佐したとされる。

  3. 604年

    前年の冠位十二階につづき、十七条憲法が定められたと伝えられ、和を尊ぶ国づくりの理念が示された。

  4. 672年

    壬申の乱が起こり、勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となり、天皇を中心とする国づくりが大きく進んだ。

  5. 701年

    大宝律令が完成し、律と令のそろった本格的な法典のもとで、天皇を頂点とする律令国家が形をととのえた。

ヤマトの大王たち

古代の日本では、近畿地方を中心に有力な勢力が育ち、各地の豪族を従えながら一つの政治のまとまりを形づくっていった。これがヤマト政権と呼ばれるものだ。その頂点に立つ存在は、当時「大王」と呼ばれていたと考えられている。各地で見つかった鉄剣や鉄刀の銘文には、この大王に仕えた人々の名が刻まれており、五世紀ごろにはヤマトの大王の力が広い範囲に及んでいた様子がうかがえる。

この時代の大王は、後の天皇とはずいぶん性格が異なっていた。大王は、強大とはいえ、ほかの有力な豪族たちと並び立つ存在であり、その地位は、豪族たちの合意や支持にも支えられていたと考えられている。蘇我氏や物部氏といった有力豪族は、ときに政治を左右するほどの力を持ち、大王の地位をめぐる争いに深く関わることもあった。中央集権的な国家というより、有力者たちの連合の上に大王が立つ――それが、古代前期のおおまかな姿だったとされている。

やがて六世紀には、大陸から仏教が伝えられ、これを受け入れるかどうかをめぐって豪族のあいだに対立も生まれた。大陸の進んだ文化や制度をどう取り入れるかは、この時代の大きな課題だった。海の向こうの先進的な国づくりに学びながら、ヤマトの政権は、より整った統治のしくみへと歩みを進めていくことになる。

推古朝の改革 ― 推古天皇と聖徳太子

そうした移り変わりのなかで、大きな節目とされるのが、推古天皇の時代である。推古天皇は、伝承では六世紀の終わりごろに即位したとされ、後の世に女性の天皇のさきがけとして語られる存在である。その治世を、甥にあたる聖徳太子が補佐したと伝えられ、有力豪族の蘇我氏とも協力しながら、新しい国づくりが進められたとされている。

この時代に整えられたと伝えられるのが、603年の冠位十二階と、その翌年の604年の十七条憲法である。冠位十二階は、家柄ではなく個人の能力や功績に応じて位を授けようとするしくみだったとされ、十七条憲法は、和を尊ぶことや、君主への忠を説く理念をまとめたものと伝えられる。これらが聖徳太子その人の手によるものか、後の世にどこまで脚色されたかについては研究上の議論もあるが、推古朝という時代に、整った国づくりへの志向が芽生えたこと自体は、多くの史料からうかがえる。

さらにこの時期には、大陸の隋へと使者が送られた。遣隋使と呼ばれるこの試みは、進んだ制度や文化を学び取ろうとする意欲のあらわれであり、東アジアのなかで自らをどう位置づけるかという、王権の新しい意識をも示すものだった。推古朝の改革は、有力者たちの連合という古いかたちから、君主を中心に秩序づけられた国家という新しいかたちへと向かう、その最初の大きな一歩だったと評価されている。

壬申の乱と律令国家 ― 「天皇」の成立

七世紀の半ば、645年には、中央集権的な国づくりを目指す改革の動きが本格化していく。豪族の連合を超えて、君主のもとに土地と人民を一元的にまとめようとするこの流れは、後に大化の改新と呼ばれた。しかし、改革の道のりは平らかではなく、王位をめぐる争いも続いた。その最大の山場となったのが、672年の壬申の乱である。

壬申の乱は、天智天皇が亡くなったのちに起こった、皇位をめぐる大きな内乱だった。この争いに勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となり、強大な権威を背景に、天皇を中心とする国づくりを一気に推し進めていく。天武天皇と、その後を継いだ持統天皇の時代には、飛鳥浄御原令と呼ばれる法令が整えられ、戸籍の作成や都の造営など、律令国家の骨組みが次々と形づくられていった。

そして、この天武・持統の時代に、「天皇」という称号が定着していったとする見方が、現在では有力とされている。かつては推古朝にすでに天皇号が用いられていたとする説が通説でしたが、研究が進むにつれ、天皇号の成立を七世紀後半に置く考え方が支持を集めるようになった。確かな成立の時期については、なお諸説がある。やがて701年には大宝律令が完成し、律と令のそろった本格的な法典のもとで、天皇を頂点とする統治のしくみが整えられた。神聖な権威をそなえた唯一の君主としての「天皇」は、こうして古代国家のかたちとともに立ち上がっていったのだ。

こうして、神話のなかに語られていた王の姿は、史実のうえに立つ「天皇」という制度として形をととのえた。けれども、律令国家が成熟していくにつれて、宮廷の内側では新たな力学が動き始める。天皇の地位は重んじられながらも、実際に政治を動かす力は、しだいに天皇のまわりに仕える貴族たちの手へと移っていった。次回は、藤原氏による摂関政治と、やがて生まれる院政という新しいしくみのなかで、権威と権力がどのように分かれていったのかをたどっていく。

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