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静かなる権威 ― 戦国から江戸へ

応仁の乱のあと、朝廷は財政が細り、即位の礼さえ容易に営めない時代を迎えたとされる。やがて織田・豊臣が朝廷を支え、江戸幕府は禁中並公家諸法度で天皇と公家を制度のなかに位置づけた。政治の表舞台から離れながらも保たれた権威の歩みを、中立にたどる。

2026年6月13日

前回まで、私たちは権力が武家へ、権威が朝廷へと分かれていく二重の構造を見てきた。その分かれ道の先で、朝廷はおそらく最も静かで、そして最も苦しい時代を迎える。戦乱が全国を覆い、かつて朝廷を支えた荘園からの収入が細っていったとされる時代である。けれども、力を失ったかに見えたこの時期にこそ、天皇という存在が「政治の力」とは別の何かによって保たれていく姿が、はっきりと現れてくる。この回では、戦国の困窮から江戸の安定へと至る道のりを、できるだけ冷静にたどっていく。

  1. 15世紀後半

    応仁の乱を経て戦乱が広がり、朝廷を支えてきた各地の所領からの収入が細っていったとされる。財政は厳しさを増した。

  2. 1560年

    正親町天皇が、毛利元就らの献金を得て即位の礼を営んだと伝えられる。祖父・父の代には即位の儀が容易でなかったとされる。

  3. 1585年

    正親町天皇が豊臣秀吉を関白に任じたと伝えられる。武家が朝廷の官位を権威の裏づけとして重んじた一例とされる。

  4. 1615年

    江戸幕府が禁中並公家諸法度を定め、天皇や公家のあり方を制度として位置づけたとされる。

灯火の細る時代 ― 戦国期の困窮

応仁の乱を一つの境として、日本は長い戦乱の時代に入っていく。各地で武士が力を競い合うなか、都を中心に営まれてきた朝廷の暮らしは、しだいに細っていったと伝えられる。朝廷の収入の多くは各地の所領に支えられていましたが、戦乱のなかでそうした収入の道が断たれ、あるいは武士に押さえられていったとされ、宮中の財政は厳しさを増したと語られる。

その厳しさを物語る例として、しばしば即位の礼のことが挙げられる。新しい天皇が位を継いだことを内外に示す大切な儀式でありながら、それを営むだけの費えを整えることが容易でない時代があったとされるのだ。後柏原天皇や後奈良天皇のように、即位の儀を行うまでに歳月を要したと伝えられる例も語り継がれている。儀式とは、ただの華やかな催しではない。それは、天皇という存在が確かにそこにあることを社会へ示す、目に見えるしるしだった。そのしるしを灯すための油にさえ事欠いた——後世そう語られるほど、この時代の朝廷は静かに、けれど深く、その存立を試されていたといえるだろう。

それでも、天皇という存在そのものが消えてしまうことはなかった。なぜ消えなかったのか。その問いに一つの答えを与えるかのように、戦国の世が終わりへ向かうころ、力を持った武将たちが、あらためて朝廷へと目を向けていく。

武将たちと朝廷 ― 織田・豊臣の時代

戦国の終盤、天下統一へと進んだ織田信長と、そのあとを継いだ豊臣秀吉は、朝廷との関わりを深めていく。両者と朝廷の関係をどう評価するかについては、協調を重んじたとする見方も、緊張をはらんでいたとする見方もあり、研究のうえでも議論が続いている。ここでは、確かに伝えられている事実の輪郭を中心に見ていきよう。

正親町天皇の時代、信長や秀吉の力添えによって、宮中の修理や朝廷の儀式の立て直しが進められたと伝えられる。長く細っていた朝廷の暮らしに、再び灯がともされていったのだ。そして秀吉は、朝廷から関白という最高位の官職に任じられたと伝えられる。武力で天下を制した者が、その地位を世に示すうえで、なお朝廷の官位を必要としたという事実は、この時代の権威のあり方をよく物語っている。実際の力を握る者と、その力に正統性を与える者——両者は別であり、後者の役割を担ったのが朝廷だった。

ここに見えるのは、武家が朝廷を支え、朝廷が武家に権威を与えるという、たがいに支え合う関係の一つの形である。それは対等な力の均衡ではありませんでしたが、天皇という存在が、現実の権力とは異なる位相で社会に意味を持ち続けたことを示している。やがて天下は徳川の手に移り、この関係は、より整った制度の形をとっていくことになる。

制度のなかの天皇 ― 禁中並公家諸法度

戦乱の世を閉じ、長い泰平を築いた江戸幕府は、朝廷との関係についても、明文化された枠組みを定める。それが、元和元年(1615年)に定められたと伝えられる禁中並公家諸法度である。徳川家康の意を受けて起草され、漢文体の条文から成るこの法度は、天皇や公家が守るべき事柄を一つひとつ書き記したものとされる。

その内容として伝えられるのは、たとえば天皇が学問をはじめとする徳目を修めるべきこととされたこと、公家の官位の昇進について従来の家ごとの慣例にもとづく基準が示されたこと、関白や武家伝奏といった役職を朝廷運営の要に位置づけたこと、などである。注目されるのは、天皇までもがこうした法度の対象に含まれたとされる点である。これによって幕府は、朝廷を自らの定めた制度の枠組みのなかに置いたと評価されている。

この法度をどう受けとめるかは、立場によって見方が分かれる。朝廷の自由を制約し、その活動を一定の範囲に収めたものとする見方がある一方で、戦乱で揺らいだ朝廷の地位を制度として安定させ、その存続を支える働きをもったとする見方もある。いずれにせよ、江戸時代を通じて天皇と朝廷は、政治の実権を担う立場からは離れたところに置かれた。

戦国の困窮から江戸の安定へ。この二百数十年のあいだ、天皇は政治を動かす者ではなく、長い由緒を体現する者として、京都の御所に静かにあり続けた。それは派手さのない、けれど確かな連続の歳月だった。やがて十九世紀、外からの圧力と内なる動揺のなかで日本は大きく揺れ動く。そのとき人々は、長く表に立たなかったこの権威を、新しい国づくりの中心へと呼び戻そうとする。次回は、王政復古の号令とともに天皇が国の中心へと押し上げられていく、近代の幕開けの物語へと進む。

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