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武家の世の天皇 ― 二つの中心が並ぶ国

鎌倉幕府の成立、承久の乱、後醍醐天皇の建武の新政、そして南北朝の分裂と室町。武士が力を握るなかで、天皇と朝廷はどう位置づけられたのか。権力は武家へ、権威は朝廷へという日本独特の二重構造が形づくられていく過程を、史実ベースで中立にたどる。

2026年6月13日

前回は、摂関政治から院政へと、天皇のまわりで実際の権力が移り変わっていく様子を見てきた。けれど、その担い手はまだ貴族や天皇家の人々の範囲にあった。この回で登場するのは、それまでとは出自の異なる人々である。武芸を本分とし、地方に根を張って力を蓄えてきた武士たち。彼らが歴史の表舞台に立ち、ついには独自の政権を打ち立てるとき、天皇と朝廷のあり方は大きな転機を迎える。権力は武家へ、権威は朝廷へ——この国の長い歴史を特徴づける二重構造が、ここに形づくられていく。

  1. 1185

    平氏が滅び、源頼朝が朝廷から守護・地頭の設置を認められたとされる。鎌倉を拠点とする武家政権が実質的に始まったと位置づける見方がある。

  2. 1221

    承久の乱。後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権北条義時に対して挙兵したが、幕府方が勝利した。

  3. 1333

    後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、天皇みずから政務を執る建武の新政を始めたとされる。

  4. 1336〜1392

    後醍醐天皇方と足利方の対立から南北朝の分裂が続き、1392年に両朝が合一したと伝えられる。

武家の政権が立つ ― 鎌倉幕府

平安の終わり、貴族の世界の外側で力を蓄えてきた武士たちが、ついに歴史の中心へと進み出てきた。源平の争いを経て、東国を拠点とする源頼朝が、武家を束ねる存在として台頭する。1185年には平氏が滅び、同じ頃、頼朝は朝廷から守護・地頭の設置を認められたと伝えられる。これをもって、鎌倉を拠点とする武家政権が実質的に動き始めたと位置づける見方がある。なお、頼朝が征夷大将軍に任じられたのは1192年とされ、鎌倉幕府の成立をいつに置くかについては、研究上もいくつかの見方がある。

ここで注目したいのは、武士が力を握ったあとも、天皇と朝廷が消え去ったわけではない、という点である。頼朝が将軍という地位を朝廷から与えられたこと自体が、それを物語っている。武家の政権は、天皇から官職を授かることで、自らの支配に正統性のよりどころを得ようとした。京都には引き続き天皇と朝廷があり、鎌倉には幕府がある。一つの国に、性格の異なる二つの中心が並び立つ——この構図が、ここにはっきりと姿を現する。

つまり鎌倉時代は、実際に人々を動かす力が武士の手に移りながらも、その力を権威づける役割はなお天皇と朝廷に残された時代だった。前回見た「権威と権力のあいだ」という構図が、貴族から武士へと担い手を替えながら、より大きな規模で受け継がれていったと読むことができる。

朝廷と幕府の衝突 ― 承久の乱

二つの中心が並び立つ国では、両者の関係をめぐる緊張がいつか表に出ることになる。それが鋭いかたちで噴き出したのが、1221年の承久の乱だった。

この時、京都で院政を行っていた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の実権を握る執権・北条義時の打倒をめざして挙兵したと伝えられる。朝廷の側が、武家の政権に対して武力で立ち向かおうとしたのだ。日本の歴史のなかでも、朝廷と武家政権が正面から武力で衝突した、大きな出来事の一つとされる。しかし結果として、幕府の側が勝利を収めた。この乱の後、幕府は京都に新たな機関を置いて朝廷を監視し、皇位の継承などにも影響力を及ぼすようになっていったと伝えられる。

この出来事は、権力の所在という点で大きな意味を持った。武力という点では、すでに天秤は武家の側へ大きく傾いていたのだ。それでもなお、幕府は天皇や朝廷を廃止しようとはしなかった。天皇という権威の核は保たれ、武家はその権威のもとで実際の支配を行うという形が、引き続き維持されたのだ。力で勝った側が、なぜ権威の中心を残したのか——この問いは、日本の歴史を読み解くうえで繰り返し立ち返るべきものだといえるだろう。

天皇親政の試みと、南北朝の分裂

鎌倉幕府による武家政権が続くなか、天皇みずからが政務の中心に立とうとする動きが現れる。それを強く志したのが後醍醐天皇だった。後醍醐天皇は幕府を倒す計画を進め、武士のなかにもこれに応じる者が現れる。そして1333年、鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇は天皇みずから政務を執る新しい政治を始めたとされる。翌年の年号にちなんで、これは建武の新政と呼ばれる。

しかし、この天皇親政は長くは続きなかった。新政には、武士たちの働きへの恩賞や、政務の進め方をめぐって不満が広がったと伝えられ、わずか数年でゆらいでいく。やがて、倒幕に大きく貢献した足利尊氏が後醍醐天皇と対立し、新政は崩れていった。後醍醐天皇は1336年ごろに京都を離れて吉野へ移り、自らこそ正統な天皇であると主張したと伝えられる。一方、足利方は京都に別の天皇を立てた。こうして、二つの朝廷が並び立つ南北朝の分裂が始まる。

足利尊氏は京都に新たな武家政権を開き、これがのちに室町幕府と呼ばれる。南北の二つの朝廷の対立は長く続きましたが、1392年に、室町幕府三代将軍・足利義満のもとで両朝が合一したと伝えられる。この間、天皇という存在は二つに分かれて争われましたが、それは裏を返せば、どちらの勢力も天皇という権威を必要とし、自らこそが正統だと主張し合った、ということでもある。

南北朝の合一によって、天皇は再び一つに戻った。しかし、それは安定した平穏の始まりではなかった。室町幕府の力はやがて衰え、各地の武士が独自に争い合う、長い戦乱の世が近づいていく。権力の後ろ盾を失っていくなかで、朝廷はその歴史のなかでも最も苦しい時代を迎えることになる。経済的にも困窮し、儀礼を行うことさえままならない——そうした静かな試練のなかで、天皇と皇室はどのように命脈を保っていったのか。次回は、戦国の動乱から江戸の安定へと至る道のりをたどる。

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