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摂関と院政 ― 権威と権力のあいだ

律令国家の頂に立った天皇のもとで、実際の政務はしだいに貴族の手へと移っていく。藤原氏の摂関政治、天皇の外戚という仕組み、そして院政という新たな権力のかたち。平安王朝の文化のなかで、天皇が権威として残っていく構造を中立にたどる。

2026年6月13日

前回まで、私たちはヤマトの大王が天皇となり、律令という法の体系の頂に据えられていく道のりを見てきた。けれど、制度の上で最も高いところに立つことと、日々の政務を実際に動かすことは、必ずしも同じではない。奈良から平安へと時代が移るなかで、朝廷の実務はしだいに有力な貴族の手へと集まっていった。なかでも大きな存在となったのが藤原氏である。この回では、藤原氏の摂関政治、天皇の外戚という仕組み、そしてのちに現れる院政という新しい権力のかたちを軸に、天皇が権威として残っていく構造を、できるだけ静かにたどってむ。

  1. 858

    藤原良房が臣下として初めて摂政の地位に立ったとされ、摂関政治の始まりと位置づけられる。

  2. 11世紀前半

    藤原道長・頼通の時代に摂関政治は最盛期を迎えたと評される。道長は娘たちを天皇のきさきとし、外戚として大きな影響力を持った。

  3. 1086

    白河天皇が幼い堀河天皇に位を譲り、上皇として政務に関わり続けたことが、院政の始まりとされる。

娘を介して ― 藤原氏の摂関政治

平安時代、朝廷の中枢で長く大きな力をふるったのが、藤原氏のなかでも北家と呼ばれる一族である。彼らがとった方法は、武力でも策謀でもなく、婚姻を通じた地道なものだった。娘を天皇のきさきとし、そのあいだに生まれた皇子が次の天皇となれば、自分は天皇の母方の親族——すなわち外戚にあたる。幼い天皇に代わって政務を補佐する摂政、成人した天皇を補佐する関白という役職を、この外戚の立場をよりどころに占めていったのだ。

摂関政治の始まりは、しばしば858年に藤原良房が臣下として摂政の地位に立ったこととされる。やがてその子孫が摂政・関白の職をほぼ受け継いでいくようになり、11世紀前半の藤原道長と、その子頼通の時代に最盛期を迎えたと評されてきた。道長は複数の娘を相次いで天皇のきさきとし、孫が次々に天皇となる状況を作り上げたと伝えられる。満ち足りた心境をよんだとされる歌も広く知られ、その権勢の大きさを今に伝えている。

ここで見落としてはならないのは、藤原氏が天皇に取って代わろうとしたわけではない、という点である。彼らの力の源は、あくまで天皇との血のつながりにあった。天皇という存在があってこそ、その外戚として政務を握ることができる。つまり摂関政治とは、天皇の権威を否定するのではなく、その権威に寄り添い、それを支えにして実際の権力を動かす仕組みだったといえる。天皇は政治の頂点にありながら、日々の決定の多くは摂政・関白を中心とした貴族たちのあいだで進められていく——そうした役割の分かれ方が、この時代に形づくられた。

もう一つの中心 ― 院政という仕組み

藤原氏の力は天皇との血縁に支えられていた。だとすれば、その血縁の鎖が弱まれば、力のかたちも変わりうることになる。実際、11世紀の後半になると、藤原氏を外戚としない天皇が現れ、状況は動いていった。そこから生まれたのが、院政と呼ばれる新しい仕組みである。

院政の始まりは、一般に1086年とされる。白河天皇が幼い堀河天皇に位を譲り、自らは上皇——位を退いた天皇——となりながら、その後も政務に深く関わり続けたと伝えられる。位にある天皇ではなく、退いた上皇が政治の実権を握る。この上皇は、出家して法皇と呼ばれることもあった。院政を行う上皇は、しばしば治天の君、すなわち天下を治める主とも称されたと伝えられる。

なぜ、退位した上皇のほうが力を持ちえたのだろうか。一つには、在位中の天皇はさまざまな儀礼や制度の枠に縛られるのに対し、上皇という立場は比較的自由に動けたという見方がある。父や祖父にあたる上皇が、若い天皇を後ろから支え、また導くかたちで政務を主導する。こうして、朝廷のなかに「位にある天皇」と「実権を握る上皇」という、二つの中心が並び立つ構図が生まれた。摂関政治では貴族が政務を担いましたが、院政ではそれが天皇家の年長者の手へと移った、と整理することもできる。

もっとも、こうした移り変わりは、ある日を境にきれいに切り替わったわけではない。摂関の家柄である藤原氏の影響力はその後も長く残り、院政期にも貴族たちは重要な役割を果たし続けた。歴史の節目はしばしば、後の世から振り返って線を引いたものであり、当時を生きた人々にとっては、いくつもの力が重なり合いながら少しずつ移ろっていく日々だったと考えるのが自然だろう。

王朝の文化と、残された権威

権力の中心が移ろっていく一方で、平安の宮廷はもう一つの大きな遺産を育てていた。文化である。仮名文字の広まりとともに、宮廷に仕える人々のあいだから、後世に長く読み継がれる物語や随筆、和歌の数々が生まれていった。紫式部や清少納言の名は、その代表として今もよく知られている。きらびやかな儀礼や年中行事、洗練された美意識——いわゆる王朝文化は、まさにこの摂関・院政の時代に花開いたものだった。

そして、その文化の中心にあったのが、天皇を頂とする朝廷という場だった。実際の政務がだれの手で動かされていたかにかかわらず、宮廷は格式と伝統の源泉であり続けた。位を授けること、暦や儀礼を定めること、年号を改めること——こうした事柄は天皇と朝廷のもとにあった。政治の実権がどこへ移ろうとも、社会の秩序を権威づける役割は、なお天皇のもとに残されていたのだ。

こうして平安時代の終わりに向けて、日本の政治には独特の重層構造ができあがっていった。実際に人々を動かす権力と、その権力を権威づける天皇。この二つが切り離されながらも結びついているという形は、このあと長く続く時代の基本的な枠組みになっていく。やがて、貴族たちの世界の外側で力を蓄えてきた者たちが、歴史の表舞台へと進み出てくる。武芸を本分とする人々——武士である。彼らが新しい時代の主役として立ち上がるとき、天皇と権威のあり方は、また新たな試練を迎えることになる。

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