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「北海道」と名づけられた日 — 一つの名に、二つの物語

一八六九年、蝦夷地は「北海道」と名づけられた。松浦武四郎が案じた「北加伊道」、開拓使という国家事業、三県一局を経て北海道庁へ。ただしこの「開拓」は、アイヌにとって土地収奪でもあったという見方を忘れずにたどる。

2026年7月7日

幕府が倒れ、明治の新政府が生まれた。北の防衛線であり、未開拓の富の眠る蝦夷地を、新しい国家はどう治め、どう呼ぶのか。その問いへの答えが、一八六九年に示される。この島は、ついに正式な名を得た。

「北加伊道」から「北海道」へ

新政府は、蝦夷地の新しい名を考える仕事を、この島を最もよく歩いた男——松浦武四郎に託した。彼はいくつかの案を示したとされるが、そのなかにあったのが「北加伊道」である。

「加伊(カイ)」という語について、武四郎はアイヌの人々が自らをさして用いた言葉に由来する、という趣旨の説明を残したと伝えられる。つまりこの名には、この大地に古くから生きてきた人々の呼称を織り込もうとする意図があったとされる。最終的に「加伊」は「海」の字に改められ、一八六九年(明治二年)、「北海道」という名が定められた。かつての五畿七道になぞらえ、北の海の道、という響きをもつ名である。

開拓使という国家事業

名が定まると同時に、新政府はこの島を開発する専門の役所——開拓使を設けた(一八六九年)。開拓使が担ったのは、単なる農地開発ではない。ロシアの南下に備える国防と、未開拓の大地の開発とを一体で進める、国家の大事業だった。「皇国ノ北門」——天皇の国の、北の門。この言葉が、当時この島に課された役割を端的に表している。

開拓使は札幌に本府を置き、アメリカから専門家を招いて西洋式の農業や技術を導入した。道路が引かれ、炭鉱が開かれ、農場が拓かれていく。短い期間に、国家の力を集中的に注ぎ込んで、北の大地を人工的に造り替えていく——それが開拓使の事業だった。

だが、ここで立ち止まらねばならない。和人が「開拓」と呼んだこの事業は、アイヌの人々にとっては、先祖代々の土地が奪われ、暮らしの場を追われていく過程でもあった。伝統的な狩猟や漁労が制限され、独自の文化や言葉が抑えられていったとされる。「開拓」という言葉の裏で、アイヌにとっては土地の収奪と生活の破壊が進んだ——という見方は、今日では重く受けとめられている。この島の近代を、開拓者の功績としてのみ語ることはできない。

三県一局から、北海道庁へ

開拓使は一八八二年に廃止され、その後、函館・札幌・根室の三県と、事業を担う一局が置かれる時期を経た。だが、広大な島を三つに分けて治める仕組みはうまく機能せず、統治は混乱したとされる。そこで一八八六年(明治十九年)、これらを一本化する形で北海道庁が置かれた。

全国が一律の「府県」に編成されていくなかで、北海道だけは「庁」という特別な行政のもとに置かれた。それは、この島が普通の県ではなく、国家が開拓を主導する特殊な地であったことの証でもある。名も、統治のかたちも、本州とは異なる道を、北海道は歩みはじめた。

こうして舞台は整った。国家が造り替えようとする大地に、いよいよ人が送り込まれていく。屯田兵、本州各地からの移民、そして囚人たち。次章では、北海道を耕した人々——開拓の群像を追う。

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