クロニカ クロニカ
← 都道府県の成り立ち|北海道 の目次へ

米の穫れぬ藩 — 松前氏が握った、交易という財源

米の穫れない大地で、松前藩は石高でなく交易を財源とする異例の藩となった。アイヌとの交易独占権を柱に、商場知行制から場所請負制へ。統治のかたちの変化が、アイヌの暮らしをどう変えていったのかをたどる。

2026年7月7日

コシャマインの戦いを鎮めた蠣崎氏は、道南の和人を束ねる盟主へと成長した。やがて豊臣秀吉、徳川家康の世を迎え、この一族は松前と名を改め、ついに大名の列に加わる。北の島に、藩というかたちの統治が根を下ろす瞬間である。

石高のない大名

江戸時代の大名は、その領地から穫れる米の量——石高——によって格づけられた。だが松前藩は違った。すでに見てきたとおり、蝦夷地は稲作に向かない大地である。米で禄を数えることが、そもそもできなかった。

そこで松前氏が財源としたのが、アイヌとの交易の独占権だった。豊臣秀吉、続く徳川家康は、松前氏に蝦夷地におけるアイヌ交易を独占的に行う権利を公認したとされる。米の穫れない藩は、代わりに交易という富を握ることで、大名として立ちゆく道を得た。北の島の統治は、その出発点から、アイヌとの関係を財源そのものとして組み込んでいたのである。

商場知行制という仕組み

松前藩は、家臣に米の代わりに何を与えたのか。答えが商場知行制(あきないばちぎょうせい)である。藩は蝦夷地の各地に「商場(場所)」と呼ばれる交易の権利地を設け、それを家臣に分け与えた。家臣は、割り当てられた商場でアイヌと交易する権利によって、禄の代わりの収入を得た。土地から穫れる米ではなく、その土地に住むアイヌとの交易の権利が、家臣を養う財産となったのだ。

やがて十八世紀になると、この仕組みはさらに姿を変える。家臣が自ら交易を行うのではなく、その権利を和人商人に請け負わせ、運上金(上納金)を受け取るようになった。これが場所請負制である。交易の現場は、藩の家臣の手を離れ、利益を追う商人たちの手に移っていった。

富の裏側で

松前藩の交易は、道南の港に富をもたらした。アイヌがもたらすサケやコンブ、ニシン、毛皮は、北前船に積まれて本州へと運ばれ、大きな利益を生んだ。福山(松前)の城下は、北の交易の拠点としてにぎわったと伝えられる。

だが、その繁栄は、アイヌの人々に課された負担の上に成り立っていた面があった。交易のかたちが藩や商人に有利につくり替えられていくなかで、アイヌの側の不満は静かに、しかし確実に蓄積されていく。

対等だったはずの交易が、支配へと傾いていく。その圧力が限界を超えたとき、アイヌの人々は、ふたたび立ち上がることになる。次章では、この島に刻まれた大きな抵抗の記憶——シャクシャインの戦いと、クナシリ・メナシの戦いを追う。

この記事は役に立ちましたか?

この物語が面白かったら——

X LINE

参考ソース・元動画