北の海に現れた影 — 蝦夷地は、国境になった
北の海にロシアの船が現れたとき、蝦夷地は藩の交易地から国家の防衛線へと意味を変えた。天領化、最上徳内・近藤重蔵・間宮林蔵らの探検、そしてアイヌの窮状を記録した松浦武四郎。黒船前夜の緊張をたどる。
2026年7月7日
二度の蜂起を鎮め、松前藩は蝦夷地の支配を固めていた。だが十八世紀の終わり、北の海のかなたに、これまでとは異なる影が差しはじめる。南下してくるロシアである。この島は、一藩の交易地であることをやめ、国家の防衛線として意識されるようになっていく。
ロシアの南下と、天領化
十八世紀後半、ロシアは千島列島を南へと下り、蝦夷地の周辺に姿を見せるようになった。通商を求める使節も訪れ、江戸幕府は北方の防衛に神経を尖らせていく。松前藩一藩に、この広大な島の防衛を任せておいてよいのか——そうした危機感が、幕府を動かした。
そこで幕府は、蝦夷地を松前藩から取り上げ、直轄地(天領)とする道を選ぶ。一七九九年(寛政十一年)に東蝦夷地を、一八〇七年(文化四年)には西蝦夷地を幕府の直轄下に置いた。北の島は、辺境の交易地から、国境を守るべき前線へと、その位置づけを大きく変えたのである。防衛のためには、この島の地理を正確に知る必要があった。探検の時代が始まる。
島を歩いた者たち
幕府の要請を受け、あるいは自らの志によって、蝦夷地とその周辺を踏査した人々がいる。最上徳内は千島や樺太を調査し、北方の地理を明らかにした。近藤重蔵は択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てたと伝えられる。そして間宮林蔵は樺太を探査し、そこが大陸から切り離された島であること——のちに「間宮海峡」と呼ばれる水路の存在——を確かめた。
彼らの足跡によって、それまで空白だった北の地図が、少しずつ埋められていった。国境を守るという意志が、地理の探究を突き動かしていたのである。
名を待つ島
天領化と探検を経て、蝦夷地は国家の視野のなかにしっかりと組み込まれた。だが、この島にはまだ、和人の側から見た正式な「名」がなかった。「蝦夷地」とは、和人が北方の人々を指して用いた呼び名に由来する言葉であり、この大地そのものの名ではない。
やがて幕府が倒れ、明治という新しい時代が訪れる。新政府は、この広大な北の島をどう治め、どう呼ぶのかという問いに直面する。防衛の最前線であり、未開拓の富の眠る大地。国家は、この島に新しい役割と、新しい名を与えようとする。
その名を考える仕事を託されたのが、島を最もよく歩いた男——松浦武四郎だった。次章では、「北海道」という名がいかにして生まれ、開拓使のもとで国家事業が始まったのかを追う。
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