菅政権と3.11 ― 国難のなかの政治
二〇一〇年に発足した菅直人政権は、翌年三月、東日本大震災と福島第一原発事故という未曾有の国難に直面する。原発対応をめぐる激しい評価の対立、不信任案、脱原発依存への転換、そして退陣まで。当時の混乱と情報の限界を踏まえ、後知恵の断罪を避けて中立に描く第七話。
2026年6月13日
鳩山由紀夫の退陣を受け、二〇一〇年六月、内閣総理大臣の座に就いたのが菅直人だった。市民運動の出身で、かつて厚生大臣として薬害エイズ問題に取り組んだ姿が広く知られ、財務大臣を経ての登板だった。政権交代の高揚がしぼみ、普天間をめぐる迷走で支持が落ち込んだあとを引き継いだ菅政権は、ねじれ国会という厳しい足場のなかで再起を図ろうとする。けれどその翌年、誰も予期しなかった巨大な災害が、政治のすべてを揺るがすことになる。二〇一一年三月十一日、東日本大震災。そして福島第一原子力発電所の事故。国難のただ中で、政治は何を担い、何に苦しんだのか。評価が激しく分かれるこの時代を、当時の混乱と情報の限界も踏まえながら、できるかぎり中立にたどる。
- 2010
六月、鳩山内閣の退陣を受けて菅直人が内閣総理大臣に就任。七月の参院選で民主党が敗北し、ねじれ国会が続いた。
- 2011
三月十一日、東日本大震災が発生。福島第一原発で重大事故が起き、政府は緊急災害対策本部と原子力災害対策本部を設置した。
- 2011
五月、菅政権は中部電力に浜岡原発の運転停止を要請。原発の安全をめぐる議論が一気に高まった。
- 2011
六月二日、内閣不信任決議案が衆院本会議で採決され、賛成百五十二、反対二百九十三で否決された。
- 2011
八月、再生可能エネルギーの固定価格買取制度を定める法律が成立。九月、菅内閣は総辞職した。
国難の前夜 ― ねじれ国会と菅政権の船出
菅直人が首相に就いたとき、民主党政権はすでに難局のただ中にあった。二〇〇九年の歴史的な政権交代から一年も経たないうちに、普天間飛行場の移設問題や政治とカネをめぐる問題で支持を落とし、鳩山政権は約九か月で退陣する。そのあとを継いだ菅は、就任直後こそ支持を持ち直したものの、二〇一〇年七月の参議院選挙で民主党は議席を減らし、参議院では与党が過半数を持たない「ねじれ国会」に陥った。法案を一つ通すにも野党の協力が要るという、極めて動きにくい状況である。
経済政策をめぐっても、菅は消費税率の引き上げに言及したことが選挙戦のなかで波紋を呼び、議論を呼んだ。財政再建と社会保障の維持という重い課題を見据えた発言だったとされるが、唐突との受け止めもあり、選挙の逆風の一因になったと指摘されている。こうしてねじれという足かせを抱えたまま、菅政権は政権運営の正念場を迎えていく。そして、その緊張のなかで、想像を絶する災害が日本を襲った。
三月十一日 ― 震災と原発事故、政治の役割
二〇一一年三月十一日午後、三陸沖を震源とする巨大地震が発生し、東北から関東の太平洋沿岸を大津波が襲った。死者・行方不明者は一万八千人を超えるとされ、戦後の日本が経験した最大級の災害となった。政府はただちに、菅首相を本部長とする緊急災害対策本部を設置し、救助と復旧の指揮にあたる。
さらに事態を深刻にしたのが、福島第一原子力発電所の事故だった。津波で電源を失った原子炉は冷却機能を失い、炉心が損傷し、建屋の水素爆発や放射性物質の放出という重大な事態に至る。政府は原子力災害対策本部を立ち上げ、周辺住民に避難を指示した。多くの人々が、ふるさとを離れることを余儀なくされたのだ。被災され、命を落とされた方々、そして長く避難を強いられた方々のことを思うとき、この出来事を軽々に語ることはできない。
事故の検証は、その後も長く続いた。国会に設けられた事故調査委員会は、事故を「人災」と表現する厳しい指摘を含む報告をまとめ、規制の仕組みや事業者と行政の関係にまで踏み込んだ。一方で、未曾有の複合災害のなかでは、どの政権であっても完全な対応は困難だったとする見方もある。誰か一人、あるいは一つの政権に責めを負わせて済む話ではない——この問いは、いまも社会全体の宿題として残されている。
脱原発依存への転換、そして退陣
原発事故は、日本のエネルギー政策そのものに大きな問いを突きつけた。菅政権はこの問題に正面から踏み込んでいく。二〇一一年五月、菅は地震の想定などを理由に、中部電力の浜岡原子力発電所の運転停止を要請した。法的な強制力をともなわない要請という形でしたが、稼働中の原発を止めるよう政府が求めたことは大きな衝撃を与え、賛否を呼んだ。安全を最優先にした判断だと評価する声がある一方で、手続きや根拠をめぐって唐突との批判もあった。
その後、菅は「原発に依存しない社会をめざす」という考えを表明し、いわゆる脱原発依存へと舵を切っていく。再生可能エネルギーの普及を後押しするため、太陽光や風力でつくった電気を一定の価格で買い取る固定価格買取制度を定める法律の成立にも力を注いだ。この方向性を、事故を踏まえた当然の転換と受け止める人々がいる一方で、電力の安定供給やコスト、産業への影響を懸念する立場からは慎重論も根強く、エネルギーをめぐる議論は今日まで続いている。
しかし、菅政権の足元はすでに大きく揺らいでいた。震災対応への批判が強まるなか、二〇一一年六月二日、自民・公明などの野党は内閣不信任決議案を提出する。与党内でも菅の退陣を求める声があがるなか、菅は採決前に「一定のめどがついた段階で若い世代に責任を引き継いでもらいたい」と述べ、退陣の意向をにじませた。これにより党内の造反は収まり、不信任案は賛成百五十二、反対二百九十三で否決される。
退陣の意向を示した菅は、震災への一定の対応に区切りをつけたとして、二〇一一年九月、内閣総辞職に至る。在任は約一年三か月。政権交代の理想を引き継ぎながら、その大半を国難への対応に費やした政権だった。復興という長い道のり、原発事故の収束と被災地の再生、そしてエネルギー政策の行方——いずれも解決にはほど遠いまま、重い課題が次の宰相に託されることになる。財政と社会保障という、菅自身も触れて議論を呼んだ難題も、なお手つかずのまま残されていた。理想を掲げて始まった民主党政権は、ここから決断と分裂の季節へと向かっていく。
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