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笑いの現在地 ― 傷つけない笑いは、つまらないのか

コンプライアンス、いじりと差別をめぐる意識の変化、配信時代の表現。誰かを傷つける笑いへの問い直しと、表現の自由への思い。百年の物語の終わりに、笑いのこれからを、答えを急がず多面的に見渡す最終章。

2026年6月14日

前回、私たちは笑いの居場所が一気に増えた時代を見た。ひな壇、ピン芸、YouTube、SNS――芸人は、テレビという一つの椅子の外へ広がり、多様な場所で生きるようになった。笑いは、かつてないほど多くの人の手に届くようになったのだ。

けれど、届く範囲が広がったとき、新しい問いが生まれた。その笑いは、誰かを傷つけてはいないか。いじりと差別の境はどこにあるのか。表現の自由と、人への配慮は、どう折り合えるのか。この最終章では、コンプライアンスと多様性の時代に立つ、笑いの現在地を見つめる。ここでも私たちは、答えを急がない。これは終着点ではなく、いまも動き続けている問いだからである。

笑っていたものを、もう一度見つめ直す

長いあいだ、テレビの笑いには、ある暗黙の前提があった。誰かの失敗を、容姿を、立場を、あるいは痛みそのものを笑いの材料にすること。罰ゲーム、いじり、ドッキリ――それらは茶の間の定番として、長く受け入れられてきた。

その前提が、2010年代以降、社会の側から問い直されるようになる。差別やハラスメントへの意識が高まり、いじめが深刻な社会問題として共有されるなかで、「これは本当に笑っていいものなのか」という視線が、笑いに向けられるようになった。象徴的だったのが、2022年に放送倫理・番組向上機構――BPOの青少年委員会が示した見解である。報道によれば、他人の痛みを笑いの対象とする演出について、視聴者から「不快」「いじめを助長しかねない」という声が継続的に寄せられているとして注意を促し、子どもがまねをしていじめに発展する可能性や、共感性の発達への影響に言及したとされる。出演者が事前に同意していても、その同意は子どもの視聴者には見えにくい、という指摘も含まれていたと伝えられている。

いじりと差別のあいだ ― 答えの出ない線引き

この時代の笑いをめぐる議論の核心には、「いじり」と「いじめ」、あるいは「いじり」と「差別」の境界線という、答えの出にくい問いがある。

いじりは、芸人どうしの信頼関係の上に成り立つ、日本の笑いの一つの様式だった。相手を立てるためにあえて落とす、本人もそれを承知で受け、見る側もその関係性を楽しむ。そこには、内輪の温かさがあった。けれど、その関係性が画面の外まで正確に伝わるとはかぎらない。同じやりとりが、ある人には親愛の表現に見え、別の人には一方的な攻撃に見える。受け手によって、いじりはいじめにも差別にも反転しうる。この受け取りの幅こそが、線引きを難しくしている、と論じられてきた。

  1. 2010年代

    差別やハラスメントへの社会的意識が高まり、テレビの笑いにも見直しの視線が向けられはじめる。

  2. 2019年

    誰も傷つけない笑いという言葉が注目を集め、笑いのあり方をめぐる議論が広がったとされる。

  3. 2022年

    BPOの青少年委員会が、他人の痛みを笑いの対象とする演出について見解を示したと報じられる。

  4. 2020年代

    配信プラットフォームでの笑いが広がり、表現の場と基準が多様化していく。

こうしたなかで、誰も傷つけない笑いという言葉が注目を集めた時期もあった。ある人を貶めるのではなく、発想や言葉そのもののおかしさで笑わせる芸が評価を受けたのだ。それを、笑いの新しい成熟と見る人がった。一方で、配慮が行き過ぎれば笑いの牙が抜かれ、当たり障りのないものになってしまうのではないか、という危惧の声もあった。どちらの感覚にも、それぞれの理がある。傷つけないことと、面白いこと。この二つは本当に両立しないのか、それとも新しい形で両立しうるのか――その模索が、いまも続いている。

配信時代の笑い ― 基準が一つではない世界

笑いの場所が多様になったことは、表現の基準そのものを多様にした。前章で見たように、笑いはテレビの外、配信やネットの世界へ大きく広がった。これは、表現の自由と配慮のはざまに、新しい風景をもたらしている。

地上波のテレビには、放送基準があり、BPOのような第三者の目があり、スポンサーへの配慮がある。一方、配信プラットフォームや個人の発信には、それとは異なる基準が働く。テレビでは難しい踏み込んだ表現が、配信では許される場面もある。逆に、世界に配信される作品では、国境を越えた多様な価値観への配慮が、より強く求められることもある。同じ「笑い」でも、どこで発信するかによって、許される範囲がまるで違う。基準が一つではない世界に、私たちは入った。

笑いは、これからどこへ ― 答えを急がずに

ここまで、寄席の高座から始まった百年の旅をたどってきた。落語と万歳、ラジオのしゃべくり漫才、テレビの道化師たち、漫才ブームの熱狂、ビッグ3、ダウンタウンの衝撃、吉本という帝国、M-1の青春、そしてネットへの拡散。形を変えながら、笑いはいつも、その時代の人々の心と社会を映してきた。

いま私たちが立っているのは、笑いが豊かに広がり、同時に、その豊かさゆえの問いに向き合っている地点である。傷つけない笑いを求める声と、表現の自由を守りたいという思い。どちらも、笑いを大切に思うからこその声である。この二つは、対立するものとして語られがちであるが、突き詰めれば、同じ願いの別の表れなのかもしれない。人を笑わせる力が、誰かを支え、励まし、つなぐ方へ向かってほしい――その願いを、私たちは共有しているのではないだろうか。

笑いがこの先どこへ向かうのか、確かな答えを、私たちはまだ持っていない。配慮が笑いを深めるのか、それとも痩せさせるのか。配信時代の自由は、新しい傑作を生むのか、分断を広げるのか。どれも、これから無数の作り手と受け手が積み重ねていく選択の先にしか、答えはない。一つだけ言えるのは、笑いは社会の鏡だということである。私たちが何を笑い、何を笑わないと決めるか。その姿が、これからの笑いをかたちづくっていく。

人を笑わせるという、これほど古くて、これほど新しい営み。その光と影を同時に見つめることが、笑いという鏡に映る私たち自身を知ることにつながれば、これにまさる喜びはない。寄席の小さな高座から始まったこの長い物語を、ここまで読み進めてくださった読者のみなさんに、心から感謝する。笑いのこれからを、答えを急がず、これからも一緒に見つめていきよう。

【笑いの帝国 ― ニッポンお笑い100年・完】

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