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ルサイルの夜 ― 36年ぶりの優勝と、ひとりの男の和解

2022年カタール。初戦サウジアラビアへの敗北から始まった大会は、決勝でフランスと3対3、PK戦の末に36年ぶりの世界一で終わった。マラドーナの影に比べられ続けた男が、最後に国と和解するまで。そして連載の締めくくりとして、アルゼンチンにとってサッカーとは何かを問う。【2026年7月16日追記】W杯2026、アルゼンチンは準決勝でイングランドを2対1で下し、7月20日(日本時間)の決勝でスペインと対戦する。【7月20日追記】決勝はスペインに0対1で敗れ(延長)、連覇はならなかった。

2026年7月25日

2022年11月22日、ルサイル・スタジアム。アルゼンチンはサウジアラビアに1対2で敗れた。36試合負けなしで乗り込んだ優勝候補が、初戦で崩れ落ちた。だがこの国の物語は、いつも敗北から始まる。

  1. 2020年11月25日

    ディエゴ・マラドーナが死去。60歳。国は3日間の喪に服す。

  2. 2021年7月10日

    マラカナンでブラジルを1対0で下し、28年ぶりのコパ・アメリカ制覇。メッシの代表初タイトル。

  3. 2022年11月22日

    カタールW杯初戦、サウジアラビアに1対2で敗北。連続無敗記録が36で止まる。

  4. 2022年12月18日

    決勝でフランスと3対3、PK戦4対2。1986年以来36年ぶり、通算3度目の優勝。

愛されきらなかった10番

メッシは13歳でこの国を出た。彼を育てたのはロサリオではなくバルセロナだった。カタルーニャ訛りの混じるスペイン語、控えめすぎる物言い。マラドーナが路地の子の粗野な生命力そのものだったのに対し、メッシは国外で組み上げられた精密機械のように見えた。本当のアルゼンチン人ではない、代表のシャツを着ると別人になる——そう書かれ続けた。バルセロナで史上最高の選手と呼ばれながら、故国のスタンドからは口笛を浴びた。

そして代表での彼は、決勝の手前で必ず止まった。2014年ブラジルW杯決勝、マラカナンでドイツに0対1。2015年コパ・アメリカ決勝、チリにPK戦で敗れる。2016年コパ・アメリカ・センテナリオ決勝、またもチリにPK戦で敗れ、しかも彼自身がPKを外した。3年で3つの決勝を落としたことになる。試合後、29歳のメッシはこう漏らした。誰よりも自分が傷ついている、だが明らかにこれは自分向きではない、と。彼は代表引退を口にした。

引退は2か月ほどで撤回される。決勝の夜にいろいろなことが頭をよぎり真剣に辞めようと考えた、だがこの国とこのシャツへの愛が大きすぎた、と彼は語った。だがそれは和解ではなかった。ただ、うまく別れられなかっただけである。彼と国のあいだには、依然として1986年の影が横たわっていた。

マラドーナが去り、国が歌いはじめた

2020年11月25日、ディエゴ・マラドーナが心不全で死去した。60歳だった。政府は3日間の国喪を宣言し、カサ・ロサダに安置された棺の前には、数十万人が列を作った。あの日イングランドから2点をもぎ取った男が、この国の政治の中心にある建物で見送られたことは、それ自体が一つの答えのようだった。

影が消えた。比べる相手がいなくなってはじめて、メッシはメッシとして見られはじめる。2021年7月10日、リオデジャネイロのマラカナン。7年前に彼が敗れて泣いたその場所で、アルゼンチンはブラジルを1対0で下し、28年ぶりのコパ・アメリカを制した。ディ・マリアの一撃だった。メッシにとって、代表での最初のタイトルである。

そのころ、一つの歌が生まれていた。ロックバンド、ラ・モスカの2003年の曲に、コパ・アメリカ決勝の夜にファンのフェルナンド・ロメロが新しい歌詞をつけた。「ムチャーチョス、また夢を見られるようになった」。その一節はこう歌う。僕はアルゼンチンに生まれた、ディエゴとリオネルの地に、マルビナスの少年たちの地に、決して忘れはしない、と。

1982年に南大西洋で死んだ徴集兵たち。1986年のマラドーナ。そして2022年のメッシ。三つの記憶が、一つの歌のなかに並んで立っていた。カタールへ渡った数万人のアルゼンチン人は、それを大合唱した。

初戦の敗北から、決勝の3対3へ

だからこそ、初戦の敗北は残酷だった。11月22日、サウジアラビア戦。前半10分にメッシのPKで先制しながら、後半の5分間で2点を返された。FIFAランキング51位の相手に、48ランク上の優勝候補が沈む。W杯史上屈指の番狂わせとされた。夢は始まる前に終わったかに見えた。

そこから先は、1試合ごとの決勝だった。メキシコに2対0、ポーランドに2対0でグループを突破。決勝トーナメント1回戦でオーストラリアに2対1、準々決勝でオランダとは2対2からPK戦を4対3、準決勝でクロアチアに3対0。負ければ終わりの試合を、5つ続けて生き延びた。

12月18日、ルサイル。決勝の相手は前回王者フランス。23分にメッシのPK、36分にディ・マリア。前半のアルゼンチンは完璧だった。だが80分と81分、キリアン・エムバペが97秒のあいだに2点を叩き込み、試合を振り出しに戻す。延長108分、メッシが押し込んで3対2。118分、エムバペがまたPKを決めて3対3。1966年のジェフ・ハースト以来となる、決勝でのハットトリックだった。PK戦、エミリアーノ・マルティネスがコマンを止め、チュアメニが枠を外し、4人目のゴンサロ・モンティエルが決めて4対2。36年ぶり、通算3度目の世界一。メッシは大会7得点、ゴールデンボールを史上初めて2度受賞した。得点王は8点のエムバペである。

数百万人と、残された問い

政府は12月20日を臨時の祝日と定めた。国民が代表への深い満足を表明できるように、というのが政令の言い分だった。オープンバスは動けなくなった。高速道路にも歩道橋にも人が溢れ、地元メディアは首都圏の群衆を400万人とも500万人とも伝えた。選手はバスを降りてヘリコプターに乗り換え、優勝パレードは上空から手を振る空のパレードに変わった。人が多すぎて中止になった祝賀——歴史上そう多くはない光景である。

その群衆のなかには、2001年に預金を失った人がいた。1982年に息子を南大西洋で亡くした母がいた。1978年の優勝を、いまも複雑な思いで振り返る人がいた。彼らが同じ日に同じ街へ出て、同じ歌を歌った。

思えば、はじまりは英国人の遊びだった。1867年、鉄道と一緒に運ばれてきた競技を、イタリア系とスペイン系の移民の子らがポトレロで作り替え、われわれのもの、と名づけた。ペロンは国家の抱擁にそれを使い、1958年の惨敗はこの国から美学への信頼を奪った。1978年、軍事政権は自国開催の優勝を宣伝に使い、スタジアムのすぐ近くでは人が消えていた。1982年、若者が南大西洋で死に、1986年、マラドーナは戦争と地続きの場所でイングランドを倒した。2001年、国は破産し、才能は輸出品になり、13歳の少年が海を渡った。そして2022年、その少年が帰ってきた。

アルゼンチンにとってサッカーとは何か。国民的宗教だ、と言うのはたやすい。だが宗教は貧困率を下げない。失踪した人々を返さない。マルビナスの少年たちを生き返らせない。サッカーがこの国を救ったことは、一度もないのだ。

それでも、この国が壊れるたびに、最後まで残ったのはサッカーだった。通貨が消えても、大統領が2週間で5人替わっても、リーグ戦の最終節は行われた。国家が国民に与えられなくなったもの——共通の物語、同じ方向を向いて何かを待つ時間——を、それだけが与え続けた。慰めにすぎない、と言うことはできる。だが、慰めしか残らない場所で、慰めは軽くない。

1978年のスタンドと2022年のオベリスクは、同じ熱狂に見えて、違うものだったのか。それとも、同じものだったのか。この連載は、その答えを持っていない。差し出せるのはひとつだけだ。次にアルゼンチンの試合を見るとき、その問いを持ったまま見てほしい。90分のなかには、150年分の国の記憶が畳み込まれている。


追記 ― 2026年7月16日、その「次の試合」について

この最終話は、次にアルゼンチンの試合を見るとき、その問いを持ったまま見てほしい、という一文で終わっている。書いたときは、漠然とした「いつか」のつもりだった。ところがその次の試合は、4日後に来ることになった。

以下は2026年7月16日時点の記述である。決勝はまだ行われていない。だからここには結果がなく、予想もない。書けるのは、いま確定していることと、それが連載のどこに触れているか、だけである。

確定していること

日本時間2026年7月16日、アルゼンチンは準決勝でイングランドを2対1で下した。後半10分にアンソニー・ゴードンに先制されたが、後半40分にエンソ・フェルナンデスが同点とし、後半アディショナルタイム2分、ラウタロ・マルティネスがヘディングで逆転した。2大会連続の決勝進出である。もう一方の準決勝では、スペインがフランスを2対0で下した。

決勝は日本時間7月20日午前4時、ニューヨーク・ニュージャージーのスタジアムで行われる。スペインは2010年以来2度目の優勝を、アルゼンチンは連覇を狙う。W杯を連続で制した国は1958年と1962年のブラジルが最後で、以後64年間、誰も達成していない。

ここに、偶然にしては整いすぎた符合が二つある。

準決勝の相手が、イングランドだった

第8話に書いたのは、1986年6月22日のアステカである。その40年後、同じ相手と準決勝で当たった。因縁の再演だ、と書くのはたやすい。だがそれは、まさに第8話で歴史家ペドロ・アクーニャが釘を刺した単純化そのものだ。南大西洋で死んだ649人を送り出したのは自国の独裁政権であり、イングランドはその責任者ではない。その重さを2026年の試合に載せる理由は、事実の側にひとつもない。40年前とは文脈が違う。

比べるべきなのは、そこではない。勝ち方のほうである。

1986年、マラドーナは自分で決めた。手で押し込み、その4分後に約60ヤードを一人で運んだ。あの日アルゼンチンが勝った理由は、一人の身体だった。前段に書いたとおり、国家が代表しそこねたものを、たった一人が代表してしまったのである。

2026年7月16日のアルゼンチンは、そうではなかった。39歳のメッシは最前線ではなく引いた位置でボールを受け、自分では決めていない。彼が記録したのは2アシストである。同点弾も逆転弾も、決めたのは別の人間だった。準々決勝のスイス戦(7月12日、延長の末3対1)でも、先制点はメッシのコーナーキックをアレクシス・マック・アリスターが頭で合わせたものだ。延長で勝ち越したのはフリアン・アルバレス、駄目を押したのはラウタロ・マルティネスである。ラウンド16のエジプト戦では、0対2から終盤に3点を返して逆転した。

決勝の相手が、スペインだ

もう一つ。第1話で英国人が鉄道と一緒に運んできた球を、第2話でイタリア系とスペイン系の移民の子たちがポトレロで作り替え、ラ・ヌエストラ——我々のもの——と名づけた。1913年、ラシンの初優勝メンバーの名簿に英国風の姓がひとつもなかった、あの話である。その「我々」を作った移民たちの母国の一方が、決勝の向こう側に立っている。

これも復讐の物語にはしない。スペインがこの地を植民地として支配したのは19世紀初頭までで、19世紀末に船に乗ってきたスペイン人は支配者ではない。貧しさから逃れた人々であり、コンベンティージョの一部屋に一家族で住み、その子どもたちが布のボールを蹴った。1913年の名簿に並ぶ姓は、その痕跡だ。

だから7月20日にあるのは、宗主国との対決ではない。人間を輸入して国を作った国と、人間を送り出した国が、対等な二つの代表として同じ試合に出る。それだけのことである。ただしその「それだけ」は、この連載の第2話が、決勝のテーブルに戻ってくるということでもある。

結果は、ここには書かない

7月20日にどちらが勝つのかを、私は知らない。知る必要もない。この連載が10話かけて書こうとしてきたのは、勝敗ではなく、勝敗の周りに人が何を貼りつけるか、だったからだ。1978年のトロフィーはいまも取り消されていないし、1930年の銀メダルも消えていない。それでも、あの二つの意味はまるで違う。

だから、この試合が終わったあとにこれを読んでいる人にも、同じことを言う。アルゼンチンが勝っていても、負けていても、あの90分には150年分の記憶が畳み込まれている。それだけは、結果の前に確定していた。


追記2 ― 2026年7月20日、決勝は終わった

以下は7月20日、試合が終わったあとに書いている。ひとつ上の追記は、その4日前、決勝がまだ行われていない時点で書いたものだ。時点の違う二つの文章が、ここで前後して並ぶ。片方には結果がなく、片方にはある。

アルゼンチンは負けた。日本時間2026年7月20日、ニューヨーク・ニュージャージーのスタジアム。スペインに0対1だった。90分はスコアレスで終わり、延長後半1分、フェラン・トーレスが決めた一点が、そのまま決勝点になった。PK戦はない。連覇はならなかった。1958年と1962年のブラジル以来という連覇の記録は、また更新されずに残っている。スペインは4大会ぶり、通算2度目の優勝である。

試合は、スペインがボールを握り続けた90分だった。エミリアーノ・マルティネスが再三防ぎ、スコアレスのまま延長へ持ち込んだ末の失点である。39歳のメッシは背番号10で先発し、終盤にアルゼンチンの攻撃を引き受けたが、スペインの守備は最後まで崩れなかった。決めることも、決めさせることもできなかった、と書くことはできる。だが「だから負けた」と続けるつもりはない。この90分の敗因を一人の身体に回収するのは、この連載が10話かけて避けてきたことだ。スペインが強く、GKが何度も止め、その均衡が延長のわずかな時間で破れた。試合の事実は、それ以上でも以下でもない。

符合はある。第2話に書いた。イタリア系とスペイン系の移民の子が、英国人の球を「ラ・ヌエストラ——我々のもの」に作り替えた。その移民たちの母国の一方に、決勝で敗れた。人間を輸入して作られた国が、人間を送り出した国に負けたのである。だが、これを因縁とも宿命とも呼ばない。ひとつ上の追記で、アクーニャの釘——単純化への戒め——を引いたばかりだ。同じ罠を、最後の一段で踏むわけにはいかない。1913年の名簿にスペイン系やイタリア系の姓が並んでいたことと、2026年にスペインが勝ったことのあいだに、糸は通っていない。事実がたまたま韻を踏んだだけである。そこに意味を貼りつけるかどうかは、読者のほうに残されている。

最終話の本文は、こう閉じてあった。アルゼンチンが勝っていても、負けていても、あの90分には150年分の記憶が畳み込まれている、それだけは結果の前に確定していた、と。結果が出たいま、動かないのはその一文だけだ。この連載が書いてきたのは勝敗ではなく、勝敗の周りに人が何を貼りつけるか、だった。だから、負けても書くことは変わらない。トロフィーは今回スペインのものになった。それでも、負けたほうの90分に畳み込まれていた150年が、それで軽くなるわけではない。

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