1ペソ=1ドルの終わり ― 2001年、国が壊れた年
1991年の兌換法が生んだ「1ペソ=1ドル」の10年と、2001年12月の崩壊。コラリート、暴動、2週間で5人の大統領、史上最大級のデフォルト。破産した国で破産したクラブが優勝し、才能は輸出品になった。13歳のメッシが海を渡った経済的な理由をたどる。
2026年7月24日
2001年12月19日の夜、ブエノスアイレスの窓という窓から、金属を叩く音が鳴りはじめた。鍋、フライパン、おたま。カセロラソと呼ばれるその音は、やがて街全体を覆う轟音になった。国が壊れる音である。
- 1991年4月
兌換法が成立。1ペソ=1ドルの固定相場が始まり、ハイパーインフレは終息する。
- 2001年12月1日
預金引き出しを週250ペソに制限するコラリートを導入。現金経済で生きる人々の生活が止まる。
- 2001年12月20日
暴動のなかデ・ラ・ルア大統領が辞任。以後2週間で5人が大統領職に就く。
- 2001年12月27日
破産手続き下にあったラシン・クラブが、35年ぶりのリーグ優勝を決める。
1ペソ=1ドルという魔法
1980年代末のアルゼンチンは、ハイパーインフレーションに沈んでいた。値札が日ごとに書き換えられ、給料は受け取った瞬間から溶けていく。1989年に大統領となったペロン党のカルロス・メネムは、経済相ドミンゴ・カバーロとともに、劇的な処方箋を選ぶ。1991年4月に成立した兌換法である。ペソをドルに1対1で固定し、発行するペソと同額のドル準備を中央銀行に持たせる。通貨を刷って穴を埋める道を、法律で自ら塞いだのだ。
効果は魔法のようだった。インフレは沈静し、外国資本が流れ込んだ。石油公社YPF、電話、航空、鉄道、水道——国営企業は次々に売却され、アルゼンチンは新自由主義改革の優等生と呼ばれた。強い通貨を手にしたブエノスアイレスの中間層は、週末にマイアミへ買い物に出かけた。この国はついに「第一世界」に入ったのだ、と多くの人が信じた。
だが固定相場は麻薬に似ていた。ペソはドルと運命を共にする。1990年代後半、ドルは強くなり、1999年には隣国ブラジルがレアルを切り下げた。アルゼンチン製品は世界市場で高すぎる商品になり、輸出は死に、工場は閉じ、失業が膨らむ。税収の穴は借金で埋めるほかなく、対外債務は積み上がっていった。しかも通貨を切り下げて逃げることはできない。兌換法こそが、この国の信用を支える最後の柱だったからだ。1998年、経済は縮小に転じる。以後4年、出口のない不況が続いた。
鍋が鳴った夜
2001年、資金は国外へ逃げ続けた。3月、兌換法を作ったカバーロ本人が経済相に呼び戻される。生みの親に延命を託すしかないほど、選択肢は尽きていた。11月末には預金の取り付けが本格化し、12月1日、政府は個人の預金引き出しを週250ペソに制限する。コラリート——小さな囲い、という意味である。カードも銀行口座も持たず現金で暮らしていた大多数の人々にとって、それは経済生活そのものの停止を意味した。
12月19日、フェルナンド・デ・ラ・ルア大統領は非常事態を宣言した。人々は逆に街へ出た。合言葉は「全員出て行け」。略奪と衝突が全国に広がり、19日から20日にかけて39人が死亡したとされる。うち9人は未成年だった。20日の午後、デ・ラ・ルアは大統領府カサ・ロサダの屋上からヘリコプターで飛び去った。
そこから約2週間、大統領職は5人の手を渡り歩く。上院議長ラモン・プエルタが暫定的に職務を継ぎ、アドルフォ・ロドリゲス・サアが就いては1週間で辞め、下院議長エドゥアルド・カマーニョを経て、大晦日にエドゥアルド・ドゥアルデが選ばれた。その渦中の12月23日、ロドリゲス・サアは議会で対外債務の支払い停止を宣言する。当時としては史上最大の国家デフォルトだった。対象額は集計の仕方によって800億ドル台から1000億ドル規模まで幅があるが、桁の大きさは誰の目にも明らかだった。
年が明けると兌換法は廃止され、ペソは切り下げられた。1ペソ=1ドルは、数か月で1ドル=約4ペソになる。ドル建てだったはずの預金は凍結されたままペソに換算されて戻ってきた。数字は残酷である。世界銀行の報告によれば、貧困率は1998年の25.9%から2001年に38.3%、2002年には57.5%へ跳ね上がった。失業率は2002年に23.6%。実質賃金は同年だけで23.7%落ちた。中間層という層が、まるごと崩れたのだ。
国は壊れた。サッカーは残った
暴動と非常事態のなかで、リーグ戦の最終節は延期されていた。ずらして行われた12月27日、ラシン・クラブはアウェーでベレス・サルスフィエルドと1対1で引き分け、35年ぶりのリーグ優勝を決める。1966年以来の栄冠だった。そのラシンは、1998年に破産を宣告され、1999年には一時クラブのドアを閉ざしていた。破産した国で、破産したクラブが優勝したのである。
財務の惨状はどこも似ていた。アルゼンチンのクラブは営利企業ではなく会員が所有する社団法人であり、1990年代を通じて、協会の黙認のもとで借金を膨らませてきた。切り下げの瞬間、ドル建ての債務は帳簿の上で三倍以上に膨れ上がる。給料の遅配、差し押さえ、選手の投げ売り。ピッチの外側で、クラブは静かに沈んでいった。
そしてスタンドには、もう一つの経済があった。バーラ・ブラーバ——クラブごとの組織化されたサポーター集団である。もとは戦闘的な応援団だったものが、チケットの転売、駐車場、露店、さらには選手移籍の分け前にまで手を伸ばす利権組織へと変質していた。彼らは票を動かし、クラブ会長選と地元政治を結ぶ結節点になる。NGO「サッカーを救え」の集計では、アルゼンチンのサッカーをめぐる暴力の死者は1922年以降で350人を超えるという。しかも近年、その多くは敵チームとの衝突ではなく、同じクラブのバーラ同士の内部抗争で生まれている。分け前が大きいほど、身内で殺し合う。国家が退場した場所には、必ず別の秩序が入り込む。
輸出される少年たち
2002年の日韓ワールドカップ。優勝候補と目されたアルゼンチンは、主力のほとんどを欧州のクラブに預けたチームで臨み、イングランドに0対1、スウェーデンに1対1と勝ち点を落として、1次リーグで姿を消した。国が破産した年、代表は皮肉にも、この国の最大の輸出品によって編成されていた。
デフォルト後、クラブに残された外貨収入の道は一つしかなかった。選手を売ることである。育て、値がつく前に売り、その金で給料を払い、また育てる。2010年には2,204人のアルゼンチン人選手が国外へ移籍し、ブラジルの1,674人を上回って世界最大の選手輸出国になった。売られる年齢は年を追うごとに下がっていった。国内リーグは、欧州へ向かう途中の中継地点に変わっていく。空洞化とは、才能がないことではない。才能が留まれないことだ。
その構造がもっとも鮮やかに現れた一例が、ロサリオにいた。10歳のとき、ひとりの少年が成長ホルモン分泌不全症と診断される。治療費は月に1,000ドル前後と報じられたが、正確な額を当事者が認めたことはない。父ホルヘ・メッシは製鉄所に勤めており、勤務先の保険が効いたのは2年だけだった。地元のニューウェルズ・オールドボーイズは負担しきれず、リーベル・プレートも興味を示しながら話はまとまらなかった。経緯については証言が食い違う。確かなのは結果だけだ——アルゼンチンのどのクラブも、この少年を抱えきれなかった。好況の10年ならできたかもしれない。だが不況4年目のクラブに、その体力はもう残っていなかった。
2000年9月、13歳のリオネル・メッシはバルセロナのテストを受ける。同年12月14日、レストランのテーブルで、スポーツディレクターのカルレス・レシャックが紙ナプキンに契約の文言を書きつけた。翌2001年2月、メッシ一家はバルセロナへ移る。母セリアは数か月で弟妹を連れてロサリオへ戻り、少年は父と二人きりで残された。最初の3年、母に会えたのは4か月に一度だった、とのちに父は語っている。
その年の12月、彼が去った国は燃えていた。少年の才能は、国が売り渡した無数の才能のひとつにすぎない。ただ一点だけが違った。彼は、いつか帰ってくることになる。
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